主が建ててくださる家
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 詩編 127編1節~5節
主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。
いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。詩編 127編1節~5節
本日は詩編127編をお読みした。この詩編は今年のテーマ聖句。ことしの目標を「主に感謝し、新会堂を喜ぶ一年」とした。今年は新会堂での歩みがいよいよ始まる。この会堂が与えられたことをまず、主に感謝したい。コロナ禍で色々と大変な中、会堂が建った。まさに主の憐れみである。もちろん、会堂建築委員会の皆様の奉仕や、会員の皆様も祈りと献金があったからこそ。あらためて、お一人お一人に感謝し、主に栄光をお返ししたい。
会堂が建った。これは喜ばしいことである。しかし、もっと大切なことがある。それは、見えない教会が建つことである。教会には、見える教会と見えない教会、2つのものがある。見える教会とはこの地上での教会のこと。見えない教会とは、これはこの地上を越えた教会。これはどういうことか、というと、天上にも教会がある。これは天上というどこか具体的な場所に教会があるというのではない。これまで、神様を信じて、天にお帰りになった全世界の信仰者、歴史の中の全ての信仰者が、この天の教会の一員なのである。私たちもまた、いつの日か、天の教会の一員となる。
私たちの教会は地上の教会。しかし、教会は地上でおしまいではない。天にまで通じるもの。そのことを覚えたいのである。そして、新しい会堂を通して私たちはこの地上での礼拝を豊かにしていかなくてはならない。しかし、指令上に、私たちが天を恋い焦がれる、自分の人生のその先に向かう場所。天の教会に一人一人を導く場所でなくてはならない。結局のところ、会堂建築とは、見える教会を建てながら、見えない教会を立てあげるということではないか。
かつて、イスラエルの歴史において神殿を建てることは一大事業だった。そして、神が建ててくださるのでなければ神の家すなわち神殿が立つことはない(1節)。すべてが主の業である。歴史の中で神殿が建てられる時、人々はそのことを深く実感した。そして、その感謝をこの詩編127編は伝えている。
この詩編は、様々な場面で用いられる詩編。献堂式、献家式や結婚式、そして幼児洗礼の時などにも、3節が用いられることがある。どれも、これから始まる家庭や家族、そして幼児の信仰が、神様によって祝福されるますようにという祈りと、主御自身が確かに建てあげてくださることを確信する祈り。
お配りした年報に私はこのように記した。「この一年間、何があるかわからない。しかし、私たちの不安は主からの期待であり、緊張は主の御業があらわれる前兆、こんなはずじゃなかったは、主にとってのこんなはず、です。一つ一つの
ことを信仰をもって受け止め、恵みに思いを向けて感謝したいものです。その時、主は私たちにこれまでみたことのない景色をみせてくださるお方です。まことに良きお方である主を賛美します」。主が建ててくださる家に住む。その幸いが私たちには与えられている。しかも私たちは新しい会堂が与えられた。一生に一度、あるかないかではないか。私たちに主はすばらしい景色を見せようとしておられる。