2022年01月09日「主よ、お話ください」

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主よ、お話ください

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
サムエル記上 3章1節~4章1節

音声ファイル

聖書の言葉

 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」
 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」
サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。
 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。サムエル記上 3章1節~4章1節

メッセージ

神の救いの歴史、救済史をご一緒に学んでいる。来週はダビデに対して与えられた神様の約束、契約をご一緒にみたいと願っている。本日はダビデの生涯から切っても切り離せない人物、サムエルの幼少時代について聖書から見ていきたい。

 サムエル、この人は預言者とよばれる人物である。さきほどから話題にしているダビデはイスラエルの王様になった人。イスラエルの王様は神によって任命される。このダビデを任命したのがサムエルである。そして、預言者とは神様の言葉を人々に伝える、そのような役割をになった人である。

 そのサムエルが幼少の時代、主の言葉が臨むことが少なく、幻が示されることはまれであった、といわれている。この少なかった主の言葉、これは神の言葉が、3章の最後の方、そして4章の最初にあるように広がって行った。そのことはサムエルによってなされた。一人の少年によって神の力が満ちあふれたのである。

 これは何を意味しているのだろうか。サムエルが特別だったというのではない。主の言葉は、主なる神によって広まっていくということ。そして、今日においては、教会を通して、私たち一人一人を通して神の言葉が広がっていくのである。少年サムエルを用いたように、私たちをも用いて神は神の言葉を広げてくださる。そのために、サムエルが用いられたということ。このサムエルの働きにがあって、ダビデ、そしてイエス・キリストに続いていく。

 あるとき、サムエルの先生にあたるエリが眠っていた。エリは老齢であたりもすでに暗い。何もみえなかっただろう。あたりは沈黙していた。この沈黙を神が破った。声が響いたのである。この声を聞いた。エリのもとにサムエルがやってきた。サムエルは自分をよぶ声を聞いたという。そのことが三度続いた。これは主の御声だと確信したエリはサムエルに、次に聞こえたら「『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」とアドバイスした。このアドバイスを聞いたサムエルはこれを実行し、主からの言葉を受けたのである。

 その内容はエリの家に裁きが下るということ。この耳の痛い話をサムエルはエリに伝え、エリもまた受け止めた。これは、主の言葉だから。主の言葉は聞く時も語る時も信頼と謙遜が求められる。

 私たちは、サムエルのように、突然、神の語りかけを聞くことはない。神の言葉は、聖書を通して、そして、今、こうして皆様が聞いている説教を通して語られている。その時に、主よ、お話しくださいという期待と、僕は聞いておりますというへりくだりをもって、このお方の言葉に期待したいのである。

 ただなんとなく、御言葉を聞いていないだろうか。神の救いの歴史は神が主導権をもってなしてくださる御業である。それとともに、神の民が神の言葉に耳を立てる時、より救いのすばらしさを味わうことになる。