主に期待する新年
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書 詩編 126編
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。詩編 126編
新年、主に期待して歩もう。
詩編126編の表題にある都に上る歌とは巡礼歌という意味。都とはエルサレムのこと。詩人はエルサレムで神の民の歴史に思いを向けている。過去を振り返っているといってもよい。前を向くために過去を見ているといってもよい。その場合の過去とはただ懐かしむだけでなく、神の恵みを想起すること。
神はイスラエルに回復を与えてくださった。この恵みを詩人は思い起こす。1節と4節に、「捕われ人を連れ帰られる」とある。もともとのニュアンスは、これは回復という意味。このところを連れ帰る、と訳しているのにももちろん意味がある。イスラエルはかつて、バビロニアによって支配された。このことをバビロン捕囚とよぶ。その捕囚からの解放はイスラエルの歴史においては出エジプトと並ぶ出来事。この捕囚の出来事を思いながら詩人は神への思いを強める。
そしてそれは人々の下に喜びの歌が満ちていた時。この出来事をみた他の国の人々は大きな業を成し遂げられたと神を賛美した(2節)。そして、さらに祈る。外国の支配から解放されても、なお、神様に祈る。「 主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう」。この祈りの時点でまだ喜びは訪れていない。捕囚からエルサレムに帰ってきたばかりである。しかし、詩人は確信している。私たちは喜び祝う。まだ訪れていないことを前もって祝う行為を予祝というがそれに近いのかもしれない。そしてこのところで人々が期待する大きな喜びとはイスラエルの再建。捕囚からの解放も再建もすべて神があたえてくださるもの。
詩人の確信は続く。4節には、バラバラになったイスラエルの人々がさらにエルサレムに帰ってきますようにという祈り。5節と6節は賛美や祈りというよりも教えや格言に近い。
5 涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。
6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
なぜ、涙を流すのか。いくつかの理解が存在するが興味深いことに、ある学者は種を蒔くことを死者の埋葬のようだと理解している。確かに、土の中に入れるという意味では似ている。実際に、イスラエルの人々は異教の地で多くの命をなくした。また、捕囚から帰る中でも多くの人の命が失われた。そのような涙を、背負って、種をまく。
これも、確かに信仰の歩みといえるのではないか。昨年、私たちは4名の方を天に送った。そこには涙がある。しかし、私たちは信仰の歩みを決して止めない。その涙は、天においては喜びに変わる。天の御国を記すヨハネ黙示録にははっきりと、涙がない、と書いてある。この地上での涙は、この涙のないところに向かうために与えられたものなのである。涙は涙で終わらない。種は必ず実を結ぶというのです。種とは御言葉のこと。私たちもまた主に信頼して御言葉を蒔き続ける群れでありたい。