2021年11月21日「キリストにある一致」
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キリストにある一致
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
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聖書の言葉
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。エフェソの信徒への手紙 4章1節~16節
メッセージ
今年の年間テーマ聖句より一年の恵みを振り返りたい。改めて思う。教会は一致、一つであること。結ばれていること。このすばらしさを私たちに教える場所であると。このエフェソの信徒への手紙の4章では、パウロは一つであること、これを強調している。ざっと目を通していただいても、一という数字が目にとまるのではないか。その一致はどこからくるのか。それは、神が唯一である。ここに教会の一致の基礎がある。神が唯一である。これは旧約聖書から新約に至るまで明確に主張されていること。私達がよく聞く三位一体の一体。これは、神が唯一、お一人であるということを告白している。
この神が唯一である。そこに、教会の一致の基礎がある。そして、この唯一の神は愛の神である。3節の平和の絆、この平和は愛のことだと理解する人もいる。愛の絆によって、一致を保つようにというのである。愛の絆、という言葉はキリスト教会の歴史において、聖霊なる神さまの働きだと理解されてきた。父なる神と子なる神を結ぶ愛の絆。それが、聖霊だというのが古くからある理解である。細かい解釈は置いておいて、私たちを結び合わせるものは、それは聖霊だということ。何か人間的なものが私たちを結びつけるのではない。だからこそ、私たちは互いに一致することができる。いや、もう聖霊によって一致していると考えてもよい。それくらい、聖霊の一致というのは確かなものではないか。もちろん、人間的にみれば様々な違いがある。その違いを超えて、私たちは平和の絆によって結ばれている一人一人である。
私は、私たちを結びつけるものがこの平和の絆であるということはとても慰めに満ちた教えではないかと思う。コロナ禍において、目に見えるかたちで一緒であることはできなかったとしても、私たちは互いに結ばれている一人一人なのである。どうしても長期欠席をせざるを得ない一人一人のことが頭に思い浮かぶ。しかし、その人はこの絆が切れたわけではない。だからこそ、再び同じ時間に同じ場所で礼拝できるように祈りたい
さて、このように愛によって結ばれた私たちはどうなるのか。それが、奉仕に適したものにされていく。12節をお読みする。聖なるものとは信仰者のこと。その一人一人が、奉仕に適したものとされていく。
この適したというのは、備えるとか準備するという意味がある。英語の聖書ではそうなっている。さらに、整えるという意味もある。そして、ある解説によれば、この適したというのは医療用語だという。聖書以外の本では、医学書でつかわれており、骨を整えるという意味がある。骨を整えるというのは、これは骨折していた骨がくっつくということだろう。またそれは、怪我が直るということではないか。教会において、私たちは癒やされていく。整えられていく。この恵みが教会を通して与えられている。来年は新しい会堂が建つ。この恵みを広めるために会堂が用いられますように。