2021年11月14日「神の宝として生きる」
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神の宝として生きる
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- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
出エジプト記 19章1節~19節
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聖書の言葉
イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語りイスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと。また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。出エジプト記 19章1節~19節
メッセージ
旧約聖書から、神の救いの歴史、救済史とよばれるものを御一緒にみている。本日はモーセに対して与えられた契約を御一緒に見て参りたい。このモーセに対して与えられた契約のことをシナイ契約と呼ぶ。シナイとは、神がモーセに契約を与えた場所。シナイ山という山。ホレブともよばれるが同じ山。このシナイ山で与えられた契約は、私たちが毎週礼拝で唱和している十戒である。そして、十戒と共に、幕屋の設計図、これもモーセに与えられた。十戒の序文に注目。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの家、奴隷の家から導きだした神である」。この序文。これが、十戒の中で最も大切ではないだろうか。これは、神がなぜ十戒を人々に与えたのかということを示すもの。なぜ、神はこの十戒を与えたのか。それは、神が人々をエジプトから脱出させた、導き出したから。
十戒の教えはただ守りなさい、という教えではない。神が、苦しみから解放してくださった。その神の道からそれないために、このように生きなさいという招きである。
さて、シナイ契約について学んで行く。3-6節が、モーセに与えられた契約の中心。このところでイスラエルは「ヤコブの家」と呼ばれている。この家族は、血のつながった家族ではない。一つの共通の経験をしている。それは、4節の言葉を借りるならば、鷲の翼に乗せる、ということ。鷲の翼に乗せるとは、これは出エジプトの出来事のこと。そのように、神の民となった人々に、神は一つの提案をする。それが、神の民とならないか、という提案である。この世界には様々な人々がいる。その中で、私はあなたを私の宝だとしたい、と神はいわれたのである。ただし、ひとつだけ条件がある。それが、私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、という条件である。
つまりこれは、神のみを礼拝する、ということ。それが、声に聞き従うということ。契約とはさきほどからふれている20章以後の律法のこと。その中心はやはり十戒である。これはすなわち、律法とは、神の声に聞くものが、その道を確かにするために守るものであるということ。
このように、神を礼拝するものを、神はご自分の宝物にしてくださるというのである。これが、神の民に対する神の基本的なまなざしであり、態度である。今も昔も未来も生きておられ、「わたしはある」と宣言される方が共にいてくださる。そして、私たちが宝ものだといわれているのには、それにふさわしい使命があるということ。宝の持ち腐れになっていはならない。宝は、輝いてこその宝である。神はどのようにして私たちを輝かせて下さるのであろうか。それが、祭司の王国、聖なる国民になるということ。聖なる国民とはどのような人々か。聖なる、というのは倫理的な正しさのことではない。何か神聖な雰囲気を持っている人のことを聖なる、というがそういうことではない。聖なる、というのはこれは神の御性質のこと。つまり、聖なる国民というのは、神の国民とされた一人ということ。そしてまたそれは祭司の王国である。祭司とは人々に祝福をもたらす存在。それが、神の民。