2021年11月07日「わたしはある」

問い合わせ

日本キリスト改革派 綱島教会のホームページへ戻る

わたしはある

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
出エジプト記 3章1節~15節

音声ファイル

聖書の言葉

• モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。出エジプト記 3章1節~15節

メッセージ

神の救いの歴史、救済史とよばれるものを御一緒にみている。これまで、創世記からアダムやノア、アブラハムについて御一緒に見てきた。本日と次週はモーセを通して与えられた神の救いの約束を御一緒に見て参りたい。

 いつものように仕事をしていたモーセは不思議な光景を目にする。火で柴が燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは知的好奇心に突き動かされてこの火の謎を解くべく近づいた。その時、モーセに語りかける声が聞こえた。神の語りかけは時に唐突である。

 神はモーセにお語りになる。本日の聖書箇所の7節と8節にある動詞に注目したい。7節では「見る」「聞く」「知る」。8節では「降る」「救う」「導く」。7節の動詞は外からの情報を受け取る受動的な動作でり、8節の動詞は積極的な主体的な動作である。神は神の民の苦しみを見て、その叫びを聞き、そしてご自分のことかのように知るお方である。だからこそ、わざわざ神を信じる者のところに降りてこられ、人々を救う。そして人々が本来いるべき所に導かれる。

 そのために、神はイスラエルの人々と共にいる(12節)。12節はモーセと共にいるという約束であるが、それはすなわちモーセが率いるイスラエルと共にいるということ。またその神は「私はある」とご自分をあきらかにされる。わたしはあるとは、「わたしはかつてあり、今もあり、そして未来もある」という意味。それは神の自存性の告白。しかし、この私はあるというのはただ単に神がおられるという意味だけではなく、神の民にとってある。神の民と共にあってくださる。この神の民とのかかわりに置いて、神はある御方なのである。

 これは人間関係などでも同じではないか。たとえば、アフリカのモザンビークに存在するある一人の人がいる。私はその人の名前も顔も、なにもしらない。その人は確かにこの世界に存在する。しかし、その存在は私にとって、何か意味があるわけではない。

 これとは逆に、とても親しい人の場合、その人は確かに、存在する。しかし、それだけではなく、その存在がこの私にとって意味がある。もし、その人がいなくなってしまったら心に穴があく。そのような存在である。

 神と私たちの関係もまさに、神がいるということがこの私にとって決定的に重要なことであり、また、神もこの私の存在を受け入れて下さる。それが、わたしはある、という時に意味すること。

 このようにして、神は私たちと共にいてくださる。あるものとなってくださる。この神の恵みが、私たちを引き上げる。私たちを罪の現実から引き上げる。私たちを神の国へと引き上げる。モーセをナイル川から引き上げて下さった神は、私たちをも引き上げて下さる御方である。