2021年10月17日「死の先にある都を目指して」
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死の先にある都を目指して
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
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聖書の言葉
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
メッセージ
死の先にある都を目指して (ヘブライ人への手紙11章8-16節)
本日は召天者記念礼拝としてこの礼拝をささげている。
召天者を覚えること。それは死者を奉ることではない。それは、その方が生きた生涯から、その方と共にいてくださった神の恵みに思いを馳せることなのである。
このヘブライ人への手紙11章では旧約聖書の人物が何名もあげられている。そして、信仰という言葉がこの11章だけで26回も登場する。その中で信仰によって、という言葉が22回、登場する。この聖書箇所は、信仰をもって死んだ旧約聖書の人々の信仰を思いながら、主とともにあるすばらしさを語っている。信仰によって歩んだ生涯を思いながら、神と生きる幸いを語っている。
このヘブライ人への手紙という書物は、手紙というよりは説教として記されたものではないかと考えられている。説教とは、たとえ過去の人物を描く場合でも、今を生きる人に語られているもの。今、まさに私が行っている説教は、今を生きるあなたに語っている。ヘブライ人への手紙も同じ。この手紙を聞く人に、今を生きる人に語りかけている。つまり、それは、アブラハムという過去の人の話しをしているのではない。ヘブライ人への手紙を開いている、この時の人々の現在に語りかけているのである。アブラハムの信仰から、今を生きる私たちの信仰が照らされ、揺さぶられ、教えられる。
私たちも、すでに召天された方を思う時、その方を通して現れた神の栄光に思いを向けたいのである。そして、自分の信仰が揺さぶられ、教えられるという経験をしたいのである。そのように、生きたいのである。それが、主にあって生きるということである。
そしてそれは、アブラハムがいくつもの恵みをあたえられながらも、さらにその先にある神の都、天の故郷を目指していたことでもある。主はこの地上において私たちにたくさんの恵みを与えて下さる。それにまさる恵みを私たちに約束してくださっている。アブラハムはこの都を目指してこの地上での生涯を生き抜いた。そこに、アブラハムの信仰がある。
しかしながら、アブラハムは約束された恵みを全て受け取ったわけではない。あくまでのその一部を手にして後は約束を信じたにすぎない。私たちも神の約束全てを手に入れるわけではない。しかし、たとえ中途半端だとしても、それはそれで信仰者らしい。なぜなら、私たちは天の都を目指す旅人。旅人はゴールを目指す。しかし、もしその度の途中で天に召されても、それはそれで旅人らしいのではないか。たとえ、志半ばで天に召されても、天の都を目指す生き方にはかわりない。この地上での生涯を、私たちは天の都を目指す旅人として歩もう。