2021年09月26日「因果応報から解き放たれ」
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因果応報から解き放たれ
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 9章1節~12節
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聖書の言葉
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。ヨハネによる福音書 9章1節~12節
メッセージ
イエス・キリストが道を歩いていた時、生まれつき目のみえない人が物乞いをしていた。目がみえないのできちんとした仕事に着くことができない。それで、人々からお金やものをもらって生活をしていた。その人をみた、弟子達がイエスに質問をする。それは、なぜこの人は生まれつき目がみえないのかという問い。彼が目がみえないのは、自分か、もしくは親が何か罪を犯したのか、何かよくないことをしてその結果、彼は今、目がみえないのだろうか。そう問うたのである。現在の自分があるのは、過去の自分、もしくは自分の親の行いの結果である。過去に、良いことをすれば今は良いし、過去に悪いことをすれば、現在も悪い、ということ。自分が過去に行ったことの結果が今に及んでいる。こうした考えを因果応報と言う。
このような弟子達にキリストはなんといわれたのか。それが3節である。
「 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。キリストは、この人の目がみえないのはこの人のせいでも親のせいでもない。神がお働きになるためでる、といわれた。これはどういうことか。キリストは、悲劇をチャンスに変えてくださる御方である。普通に考えれば目がみえない。これは悲劇である。特に、この時代においてはなおさらである。しかし、それでもキリストはいわれる。神の業がこの人にあらわれるためであると。
キリストはこの人の目を開いた。それはただたんに、視力が回復したということに留まらない。過去からも解放されたということ。過去に原因をもとめる生き方は動かしようがない。しかし、その呪縛から解き放とう。それがキリストの思い。
それではどうやってキリストはこの人を過去から解放したのかというと、それがつばと土で泥を造り、それを目につけ、その泥をシロアムという池で洗いなさい、というもの。シロアム、といのは遣わされた者、という意味だとわざわざ書いてある。遣わされた者。シロアム。このシロアムのところに行くようにというのである。遣わされた者。それはだれだろうか。6章29節によれば、遣わされた者とはイエス・キリストのこと。
キリストのもとにくると何がおこるのか。それが洗いである。水で洗われるということである。この目のみえない人はシロアムで目を洗った。それによって目がみえるようになった。キリストのところに私達がむかうのであれば、それはきれいにしていただく、清めていただくということである。その時に私たちは心の目が開かれ、過去から解放される。