2021年09月12日「悪の敗北」

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悪の敗北

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
創世記 3章1節~24節

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聖書の言葉

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。創世記 3章1節~24節

メッセージ

神は人間を神にかたどって創造した(1章27節)。神は父と子と聖霊なる神が、三者でありながら一つの神。これを三位一体という。三位一体の神は神ご自身の中で向かい合っている。人間もまた向かい合う存在。神と向き合い、この世界と向き合い、他者と向き合う。人と神は互いに向き合うものとなった。しかし、この関係に亀裂が生じた。その原因はなにか。それが、罪である。その罪の原因について記すのが、創世記3章である。

 聖書はこの罪が世界に入り込んだことにより、この世界にあらゆる悲惨がもたらされたと記す。私達が日々感じる様々な不協和音の原因すべてこの罪にある。そして、キリスト教はこの罪からの解放を伝える。それはあえていえば、私が1つになること。この存在が調和をとれた存在となること。平和といってもよいだろう。それが私達が罪から解放されるということ。

 この罪は蛇によってもたらされた。蛇が行ったことは、神に対するイメージチェンジをしたということである。3章1節は、神があたかも厳しい御方で、何も食べてはいけないかのように命じたかのように蛇はそそのかした。

 事実はことなる。神は園の実を何でも食べて良いといっておられる。しかし、蛇は神が人間に豊かに与えてくださる御方ではなく、何もあたえてくれない、そういう御方であるかのように人間にイメージを植え付けたのである。この結果、神から気持ちが少しずつ離れていく。神に対するイメージが代わっていく。しかし、大切なのはこの時、女が抱いた神のイメージは、神が与えたもの、神が教えたものではなく、外からやってきたものだということ。

 この点はとても大切なこと。私達は、神に対するイメージを持つ。その神はとても厳しい御方のように思える。しかし、それは聖書が教えている神の姿ではない。あくまでも人間が勝手に造り上げたものである。あなたの神に対するイメージはどうだろうか。聖書が伝えている神の姿だろうか。それとも、他の何かに影響されて造り上げた神の姿だろうか。主は良い御方という聖書のメッセージをわすれてはいけない。

 こうして、本来の姿から離れた神のイメージを人は持って行く。その結果、神に対しての不信感が生まれる。その思いの先は、自らが神になる。そうした思いである。それはすなわち、善悪、あらゆるものの知識を知りたい、この欲求である。その結果、神が与えた言葉を裏切ってしまった。これが罪である。ここからあらゆる悲惨が始まった。

 しかし神は、人間が罪を犯してすぐに救いの約束を与えてくださった。それが3章15節。これは原福音とよばれる箇所。そしてこの女の子孫を教会はイエス・キリストだと理解している。キリストによる罪への勝利は人間が罪を犯してすぐに与えられたのである。神の恵みの速さに思いを向けたい。