光の勝利
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- 小宮山裕一 牧師
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創世記 12章34節~56節
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聖書の言葉
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。創世記 12章34節~56節
メッセージ
本日よりご一緒に旧約聖書の御言葉から信仰の養いを受け取って参りたい。本日は創世記の冒頭。この箇所は紀元前6世紀、北イスラエル王国がアッシリアという国に征服された時代に執筆・編集されたもの。この出来事を捕囚という。捕囚はイスラエルにとって大きな出来事だった。民族の根源に関わる事件。その出来事を体験がこの箇所に反映されている。人々は先が見えない状況の中で、神を信じた。神がこの暗闇を照らしてくださると信じていた。だからこそ「光あれ」という言葉が意味を持つ。それは暗闇を照らす光だ。またそのお方は天と地を創造された方。天と地。これはこの世界すべてを指す。神がこの世界をあますところなくお造りになった。この世界には神の力が及ばないところはどこにもない。地は混沌である、という言葉も興味深い。ある英語の聖書はこの混沌、という言葉に「がれきの山」という言葉を当てている。実際に、アッシリアによって滅ぼされた北イスラエルの国に広がっていたのはがれきの山ではないか。そのがれきの山のがれきが片付いていく。それはイスラエルの復興であり神の民の再建。そしてそれは、神の力によってなされている。このがれきの山は現代にもみられるものである。東日本大震災の時に仙台を訪問した。その時に高速道路に乗りながら見たのは田んぼに広がるがれきの山である。こうした混沌は現代にもみられる。私たちの中にもあるかもしれない。そのような混沌にあって、神は何をなさるのか。それは光である。神が光をあたえてくださるのである。光あれ、と神は言われた。この光はいわゆる太陽の光のことではない。太陽の光がでてくるのは15節になってから。それでは、この光はなにか。それは闇と光をわけるための光である。闇と光をわける。これはどういうことか。これはいってしまえば、時、時間である。時の光といってもよい。光が生じたというのは、時間が生じたということであり、それは、混沌に秩序をもたらすものである。
混沌としていて、がれきの山のようなところに、神の光が差し込んだ。それは、秩序をもたらすものである。神がこの世界を秩序だって、導いてくださる。その始まりが、光のはじまりなのである。この光は闇に勝つ。闇に光は勝てない。ヨハネによる福音書が記す通りである。それは、空しいものに喜びが生じ、混沌が整理され、つまみどころのないものに輪郭が現れ、がれきの山が街になっていくこと。こうして、神はこの世界を照らされる。この世界は神が見捨てた世界ではない。神が光を照らされる。この世界なのである。これが、私達がこの世界を見つめる時の1つの視点。もちろん、この世界には様々な悪がある。欠けがある。それは来週、見るように罪の結果。しかし、その罪に先立ち、神の光が確かにある。