2021年08月15日「引き渡されたイエス」
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引き渡されたイエス
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章36節~46節
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聖書の言葉
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
マタイによる福音書 26章36節~46節
メッセージ
イエス・キリストその死の直前の場面が本日の聖書箇所。この時、イスラエルの人々は祭りの時期だった。その祭りは過越の祭りという。
その過越の祭りの時、イエス・キリストは弟子達を伴いゲツセマネとよばれるところにむかった。そしてそこで祈られた。この時のキリストの祈りはとても激しい祈りである。キリストが祈ったのは、なぜか。それは悲しみを抱えていたからである。苦しみといってもよい。それが、キリストの祈りの理由。キリストはこの苦しみを6時間にも渡って味わったのである。
キリスト教の信仰の中心はキリストが真の神であるということ。そして、まことの人であるということ。私達と同じ姿形をとっても、私達とは根本的に異なる神としての権威と力を持っておられる。それが、キリスト教の基本的な教え。
しかし、本日の聖書箇所で描かれているのは、苦しみ、悲しみ悶え、弱音を吐くキリストである。ここには、真の神としての権威や力が感じられない。私達と同じように、いや、私達以上に弱々しいと思えるような、キリストの姿である。
私達の教会の伝統のはじまりであるカルヴァンは、キリストは時に、神としての権威を隠されると言う。決して、神の力がなくなったわけではない。そして、キリストがご自分の神としての力を隠してまで、その弱さを味わったということは、私達にとって慰め深いのではないだろうか。
しかしながらキリストの苦しみと私たちの苦しみには違いがある。私たちは自らの罪の故に苦しむ。イエス・キリストは罪のないお方である。そのお方がこのところで体験した苦しみ。それはこの罪から抜け出したくても抜け出せない。本来は人間が背負うべきその苦しみなのである。このところで杯といわれているのは、この罪の苦しみのこと。罪は死をもたらす。だからこそ、主イエスは死ぬばかりに苦しいとこのところで御語りになっている。
キリストがこのところであじわっているのは、死の恐怖そのものである。私達は死を見つめない。人はいずれみんな死ぬことはよくわかっている。しかし、その死のむごさを見つめない。死のむごさ。それはなにか苦しむということではない。罪人にとって死はそれは神無き世界にむかうことなのである。神、まことの神。愛であり恵深い御方。この御方から離れしまう。それが死。
神はこの死の恐怖と死の苦しみ。それを、このイエス・キリストに負わせることを良しとした。キリストが真の人として苦しむ時、それは神無き世界に生きる苦しみである。それは、この世のものとは思えない苦しみである。その苦しみをまさにこのところでキリストは味わっているいる。それが、神の思いだから。神はキリストをこの苦しみに引き渡されたのである。
そして、キリストはこの死に勇敢に立ち向かうのである。自分を殺そうと画策する人たちが向こうからやってくる。死が、押し寄せてくる。大いなる苦しみが押し寄せてくる。その死に対して、苦しみに対して、悲しみに対して、キリストは立ち向かう。立て、行こう(46節)。死に立ち向かい、復活により死に打ち勝たれた方。このお方を信じる時、私たちもまた、死に立ち向かう力が与えられる。キリストの力を身に帯びながら。