裏切り
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
創世記 12章34節~56節
音声ファイル
聖書の言葉
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」創世記 12章34節~56節
メッセージ
本日の聖書箇所に、キリストを裏切るユダが登場する。14節にはこう記されている。「 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が・・・」。
ここにイスカリオテのユダという者が、と書いてある。この「という者」というのは「言う」「呼ばれる」を意味する言葉の翻訳。言うはギリシャ語でレゴ-という言葉だが、このレゴ-には選ばれるという意味がある。これはイエス・キリストがそれはすなわち神が、このユダを選んだ、ご自分のもとに招いたということ。キリストは自分を裏切るユダをご自分のもとに招いた。自分から選んだのである。これは考えてみればとても不思議なことではないか。どうしてキリストは自分を裏切る人を選び、自分の近くにおいたのか。それは神秘としか言いようがない。しかし、このユダは結果的にキリストを裏切ったにせよ、キリストの招きに、つまりそれはキリストの愛の中にいた人である。そのことは確かなのである。ではその愛の中にいた人がなぜキリストを裏切ったのか。これはとても難しい問題だ。しかし、覚えたいのはユダはキリストのまなざしの中に、呼びかけの中に確かにいたということ。蚊帳の外にいたわけではない。
私達は自分が、他人がキリストを裏切る。そうした姿に直面するとき、あの人は最初からキリストに愛されていなかったもしくは自分はキリストの愛に値しない人間だと思ってしまうことがある。しかし、そうではない。私達は確かにキリストのよびかけの中にいる。私達がどれほど不十分さの中に生きていても、この御方の呼びかけの中にある。それは神の守りと恵の中にいるということ。それは変わらない。
この聖書のメッセージを受けとって欲しい。自らの信仰生活や日々の生活に不平や不満を言い始めたらキリがない。しかし、今、キリストのメッセージを聞いている私達は確かにキリストの招きの中にいる。選びの中にいる。私達の今の状況も、全てのこのキリストの愛と配慮の中にある。それを知ることで私達は心の矢印を自分ではなく、キリストに向けはじめる。
ユダもこのキリストの呼びかけの中にいた。しかし、キリストを裏切ったのである。それではユダの裏切りの動機はなにか。ヨハネによる福音書をみると、このユダが弟子達の会計係であったにもかかわらず、お金をだまし取っていたという記述がある。もし、この記述に根拠をもとめるのであれば、ユダは自分が犯した罪は決して赦されないのだと、そう感じていたのではないだろうか。これは私達が常に抱く感情である。心の矢印が自分を向く。その時、自分の人生からキリストを退場させたくなってしまう。ユダはキリストを裏切った。それは、キリストに対するゆがんだ認識による。
それではキリストとはどのような御方なのだろうか。キリストはどこまでも、私達を赦してくださる御方である。受け入れてくださる御方である。キリストはユダに語りかけた。「あなた」(25節)と。キリストの語りかけに応答しよう。赦しを信じながら。