2021年07月18日「赦されて生かされて」

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赦されて生かされて

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ルカによる福音書 7章36節~50節

音声ファイル

聖書の言葉

さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカによる福音書 7章36節~50節

メッセージ

イエス・キリストがシモンという人物の家に招かれたとき、一人の女性が家に入ってきた。この人は「罪深い女」といわれている。この人は何をしたのか。泣きながらイエスの足を涙でぬらした。そのぬれた足を自分の髪の毛でぬぐった。そして、イエスの足にキスをして、香油を塗った。この香油はこの女性が持っていたもので、とても高価な油。なぜ、この人はいきなりこんなことをしたのだろうか。そしてこの行為の意味は何か。はっきりしているのはイエスが言う様にこの女性はイエスに対して深い愛情を示したということである。確かに愛情は伝わる。しかし、常識から考えれば外れているとしか言いようがない。

 実際に、この時、ファリサイ派の人々はこの女性の姿をみて、あっけにとられたのではないか。それだけではない。この女性の行為をうけるイエスをみて、イエスに対してもあっけにとられたのではないか。この女の人は罪人だ。その人の好意を正面からうける。それは、言ってしまえば、この女性を買い取った行為に等しい。そのようにファリサイ派の人々は思ったのではないか。

 だからこそ、主イエスは彼らの内面をえぐられる。そのために、主イエスは1つのたとえ話を行う。このたとえ話はとても単純である。ある金貸しがふたりの人にお金を貸した。一人は500デナリ、もう一人は50デナリ。この金貸しはその両方の借金をチャラにした。それではどちらの方が金貸しを愛するのか。その点を問うたのである。

 このところでイエスが話題にしている借金とは神に対する負債であり、それはすなわち罪である。つまり、借金がなくなるというのは罪が許される、罪がチャラにされるということ。実際に、ファリサイ派の人々は真面目に信仰生活を送っていた人々。もちろん、まったく罪がないわけではない。しかし、この女性に比べればその10分の1、いや実際はもっと少ないかったかもしれない。

 しかし、このところでこの500デナリと50デナリの違いに注目すると主イエスの言葉の意味を誤解することになる。このところで問われるのはどれだけ罪を犯したかというのではない。どれだけ罪を赦されたか、ということ。

 この時、借金を帳消しにしてもらった二人は自分では何もしていないということ。一方的に帳消しにしてもらった。たしかに、500デナリと50デナリでは500デナリの方がより大きな額。しかし、この50デナリを赦してもらった人も十分な金額の借金がなくなっている。そして、この50デナリを帳消しにしてもらうために自分は何もしていない。そのことをよろこぶべきなのである。

 これが、主イエスの招きなのである。実は、このところで、主イエスはこのシモンにこの赦された喜びを知ってもらいたい。そう願っているのである。シモンを叱責しているのではない。救いの喜びに満たされたこの罪深い女を見よ。それがイエスのメッセージ。

 私たちもまた罪の赦しに招かれている。罪赦されたものは神がその生涯の責任をとってくださる。だからこそ、イエスはいうのである。安心していきなさい、と。