2021年07月11日「私を憐れんでください」
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私を憐れんでください
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 15章21節~28節
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聖書の言葉
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。マタイによる福音書 15章21節~28節
メッセージ
主よ、憐れんでください マタイによる福音書15章21-28節
本日の聖書箇所に登場するカナンの女は自分ではどうすることもできない状況に置かれていた人。この女性は主イエスに願う。この人は追い込まれている。この人を追い込んだもの。それは、子供の命の危機である。だからこそ、この時、この女性はイエス・キリストを主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください、と叫ぶのである。しかし主イエスは必死に叫ぶこのカナンの女の声に耳を傾けなかったというのである。
イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」といわれた。まさに、とりつくしまもない、というところだろう。こどもというのはこれはユダヤ人のこと。小犬とは、ユダヤ人以外の人々、このカナンの女のような人々のこと。つまり、あなたは完全に救いから外れている。そのことを述べているのだということ。この言葉は厳しい。とても厳しい。残酷ですらある。しかし、同時に考えたいのはこの主イエスの言われた言葉の真実さである。果たして私達は自分が救われる価値のある存在か、ということである。つまり、自分のこととして考える時に、果たして自分は救いに与る価値があるのか。そして、自分に救われる価値がないということがわかると、主イエスの恵みがよくわかる。自分には価値がない。その私が救われた。それが、教会に集う一人一人である。そうだとすればまず、私達が行うべきは自分には救われる価値がない、そのことを認めるということ。
そして、カナンの女は自分には救われる価値がないということをはっきりと自覚した。だからこそ、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」という言葉に導かれる。
このやりとりはとても迫力がある。気迫に満ちている。何がなんでも娘を助けてもらいたいという思いを感じざるを得ない。まず、このところでカナンの女は「主よ、ごもっともです」という。主イエスのいう通りである。しかし、というのである。一度、主イエスの思いを受け入れた上で、それでもなお、というのである。 この女性は主イエスの話しをいわば逆手にとっている。もし、自分が異邦人が「犬」であるならば、少なくとも犬には犬の権利がある、というのである。犬はパンをもらえなくても、残飯はもらえるでしょう、というのである。それはつまり、まず、キリストはダビデの子としてイスラエルのところにいかなくてはいけない。しかし、その後には異邦人のところに来る。イスラエルのところにいって、それでおしまいではないでしょう。そういう言い方である。
この彼女の告白は、自分の娘が助かってもらいたいが故の熱心さのあらわれ。しかしそれが、彼女がどこまで意識していたかはわからないが、あらゆる人々はイエスキリストにあって救いに導かれている。その教えを告白したのがこの女性である。この信仰を主イエスは「立派だ」とお認めになった。それは主はなんでもおできになる、ユダヤ人のみならず異邦人もお救いになるという信仰。主はなんでもおできになる。この主イエスを信じる。この主にあわれみを祈る。主よ、わたしを、憐れんでください!