2021年07月04日「あなたは何を祈りますか?」
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- 小宮山裕一 牧師
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ルカによる福音書 18章9節~14節
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聖書の言葉
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書 18章9節~14節
メッセージ
今日の聖書箇所には二人の人が登場する。一人はファリサイ派でもう一人が徴税人。ファリサイ派、というのは当時の宗教的エリート集団。分離派、というのが本来の意味。つまり、普通の人々と自分達は異なっている。分離されている。そう信じて疑わなかった人々のこと。それに対して、徴税人というのは当時の嫌われ者。政治的にいえば異端者であり、宗教的にいえば嫌われていた。
この両者が神に祈る。そして、神はこの徴税人の祈りを聞きあげてくださった、というのが本日の聖書箇所の内容である。決して、難しいことではない。ファリサイ派はここでは反面教師のような役割を果たしている。そしていうまでもなく、私達はファリサイ派ではなく、この徴税人のようになることを進めている。
このファリサイ派の人は自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々の代表だと9節に記されている。うぬぼれている、というのは思い込んでいるとも訳せる。つまり、自分が正しいと思い込んでいる人という意味。ただし、思い込んでいるというのであり、決して正しい人ではない。
自分が正しい。そのように人間、誰しもが思うのではないか。その正しさはどこから来るのか。それは、他人と比較して自分がよりただしい、より相応しい、より優れている。そのような判断からくるのではないだろうか。たしかに、私達は自分と他人を比較して、あの人よりも自分は優れているとか、劣っているとか、そうした感情によって心がかき回されることがある。
そうした思いから完全に自由になることは難しいかもしれない。どうしても、どちらがより正しいかを問われる時がある。しかし、それが、私と神の間柄において持ち込まれると、ややこしいことになる。他人と比較することにより神と私の関係に影響をもたらすとしたら、どうだろうか。主イエスが問題にしているのはその点である。
ファリサイ派の堂々とした祈りに続いて徴税人は短く祈る。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』この祈りはファリサイ派の人とは正反対。ファリサイ派の人は自分のことを中心に祈る。それは他の人と比べてすばらしい自分を差し出す祈り。それに対して、徴税人は、ありのままのじぶんを差し出している。二人とも、自分の思いのたけを神様にぶつける。しかし、神様を見つめるか、他人を見ながら自分が優越感に浸るか。ここに大きな違いがある。そして徴税人は神様の前で、憐れみを求めている。自らではどうすることもできない罪を前にして神に祈る。その祈りは神の一方的な憐れみを求める祈り。
この祈りをイエスは認めた。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われた。これもまた神の憐れみである。神によって低くしていただこう。その時、私たちはやはり神によって高められる。