2021年06月27日「愛する者のための命」

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愛する者のための命

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 10章1節~21節

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聖書の言葉

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」ヨハネによる福音書 10章1節~21節

メッセージ

イエス・キリストは真の神であり、私たちにとっての羊飼い。この御方がどのようにして羊である私たちを養ってくださるのかを本日の聖書箇所から見ていきたい。

 一つ目は9節。ここにある門とは、囲いの中に入るためのもの。この中にはいって、羊は牧草を得る。つまり、キリストという門を通して私たちは養いをうける。

それは、私たちが祝福をうけるということ。出入りして、とあるのはこれは神様からたくさんのよいものを頂くことのひとつの表現(申命記28章6節) それは、救われる、といわるものであり、そして牧草を食べるような営み。救われるというのはいわゆる魂の救いというようなことではなく、10節に記されているような、身の危険。これからの救いだと理解できる。言ってしまえば、身の安全だといってもよい。そして、牧草を得るというのはこれは食べることであり、まさに、肉体に関すること。つまり、イエス・キリストは私たちの肉体をも守ってくださる

 次に、この御方は私たちのために命を捨てるという仕方で私たちを養ってくださる。それが11節。普通に考えて、いくら羊飼いでもそこまでしない。自分の身に危険がくれば逃げるだろいう。狼にやられる前に逃げて羊が食べられてしまったとしても、それは仕方がないときっと考えるのではないか。しかし、本当の羊飼いはそうではない。この羊飼いは羊のために命を捨てる。命を捨てる、とあるが、これは命を与えるとも読める。この命を捨てる・与えるが11節と15節に登場する。そして、同じ言い方が15章13節に登場する。それは、友のために命をすてる、これが最も大きな愛だという主イエスの言葉。キリストはこの愛を御自分の羊たちに与えたもうお方である。

 最後に、16節にあるようにキリストは私たちを1つにするという仕方で、私たちを養ってくださる。1つにするとは共に群として歩むということ。これは明確にキリストの教会のことを指している。まず、キリストは私たち一人一人の名を呼んでくださり、そして一匹ではなく、皆で養ってくださる。

 1つになるというのは一致するといってもよい。それは、一人である牧者、イエス・キリストによる一致。この一致によって1つになる。羊それぞれは個性があるが、牧者によってひとつにまとめられていく。しかも、この群にはまだ群に入っていない羊もまた招かれるとある。すでに、群に入っているのは、もうすでに救われている、そのような一人一人。そして、神様はまだこの群にはいっていない一人一人にも、この群に入るようにと招く。声をかけてくださる、という。

 この約束を私たちはいただいている。まだキリストを信じていないかたも、この言葉をキリストからの招きとして、この御方の声を聞いて頂きたい。そうすればこの幸いに招かれていることのすばらしさを知る。