2021年06月13日「あなたを招くイエス」

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あなたを招くイエス

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節

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聖書の言葉

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章25節~30節

メッセージ

疲れた者、重荷を負う者にキリストは語りかける。疲れとはなんだろう。重荷とはなんだろう。この点は少し理解が難しい。1つの理解は、25節の知恵あるもの、賢いものという言葉をヒントにするもの。知恵あるものや賢い者は、律法学者とよばれる人々のことで、人々に聖書の言葉を教え、決まりを命じていた人々。そうした決まりにがんじがらめになっていた人々が、このところで疲れた者、重荷を負う者だという理解がある。

 しかし、これは一面的ではないか。知恵あるもの、賢いものは疲れないのかというと決してそうではない。もちろん、決まりに縛られる人々は疲れるが、ここで知恵あるとよばれる人々も、自分なりの正義を懸命に追いかけていた。そうしたひともやはり疲れるのである。

 それでは、たただんに私たちが日々感じる疲れ。栄養ドリンクを飲み、風呂に入り、よく眠ればとれる疲れ。それが、疲れなのか。日々の仕事や家事、そうしたものが重荷なのだろうか。ここで主イエスが言わんとしていることはそうしたことよりも、もっと根本的なものである。今、申し上げたような意味での疲れや重荷はそれぞれ原因が違う。働きすぎ、食事の栄養が悪い、そうしたところから来る疲れに主イエスがいちいち答えてくださるのではない。主イエスはここで、休ませてあげようといわれた。どんな疲れでも、重荷でも、私のところに来なさい、と言う。

 ある英語の聖書はこれをリカバリーと訳している。これは回復という意味。怪我をしたり、何か不都合がおきたらリカバリーをする。つまり、主イエスがここで問題にしているのは、私たちに回復を与えてくださるということ。それは私たちが、この体のどこかに傷を負っているということ。この傷を罪というのではないか。ある人は、罪とは破れであるという。私たちはどこか破れているのである。精神的に分裂をしているというのではない。自分では治療できない破れ。それが罪である。

 その罪からの回復を主イエスは約束してくださった。つまり、私たちが継ぎ合わされ、1つになっていく。それは本来の自分と言っても良い。その本来に自分に回復する。それが、主イエスが与えてくださる休みなのである。それは罪がゆるされるといってもよい。これがやはり、回復の最初なのである。

 29節はこの回復の道のりである。それは、くびきを負うことであり、主イエスに学ぶことである。くびき、というのは家畜の首につける道具であり、ふたつで1つ。二頭の家畜にくびきをつけて、はたけを耕す。それが、くびきである。つまり、このくびきは、私たちの重荷となっているものを主イエスが二人一組になって担ってくださる。そうした意味だと理解できる。

 キリストは私たちの罪を背負ってくださった。それは二人で背負うというよりもこのお方が丸ごと背負ってくださるような仕方であった。そこにこそ、救いは確かにあるのはこの恵み。