2026年03月15日「人の思いと神の計画」

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人の思いと神の計画

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章1節~5節

音声ファイル

聖書の言葉

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。マタイによる福音書 26章1節~5節

メッセージ

マタイによる福音書26章1節の「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」という一文は、この福音書における五つの大説教の最後の区切りである。しかも今回だけ「すべて」という語が加えられている。これは単に終末説教の終わりを示すのではなく、イエスの教えの時が完了し、出来事の時が始まることを告げている。語る方から語られる方へ、言葉を与える方から御自身の体をもって救いを成し遂げる方へと、イエスは歩みを進められる。

場面は切り替わり、祭司長たちと民の長老たちが大祭司カイアファの屋敷に集まる。これは正式なサンヘドリンの会議ではなく、律法学者を欠いた非公式の密議である。カイアファはローマとの関係を巧みに維持して18年間大祭司の座にあった政治的手腕の持ち主であった。彼らは「ドロス」(欺き・偽り)を用いてイエスを捕らえようとし、群衆の暴動を恐れて「祭りの間はやめておこう」と計算する。すべてが「隠す」方向に向かっている。スイスの精神医学者であり、思想家でもあるポール・トゥルニエが「罪の本質は隠すことである」と語ったように、創世記のアダムとエバ以来、罪を犯した人間がまずすることは身を隠すことであった。イスラエルの宗教的指導者たちが神の御子を殺す計画を隠れて進めている姿は、その延長線上にある。

しかしマタイは密議の場面の前に、2節の主イエスの言葉を置いている。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」ここには何の隠し事もない。祭司長たちが密室で陰謀を巡らすまさにそのとき、主イエスは公然と来るべきことを語っておられる。祭司長たちの側は「捕らえ、殺そう」という能動態、主イエスの側は「引き渡される」という受動態である。この受動態は神が主語であり、神がことを成し遂げる場合に用いられる。この神的受動態は引き渡しの究極的な主体が父なる神であることを示す。隠す者と露わにする者、陰謀の能動態と神のご計画の受動態が鮮やかに対比されている。しかもイエスがこの言葉を語りかけた弟子たちは、やがて主を裏切り、見捨て、知らないと言う者たちであった。それを知っていてなお、主は何も隠さなかった。十字架刑そのものが城壁の外ですべての人の目に触れる場所で行われた公然たる出来事であったように、主の受難は初めから終わりまで隠されることのない歩みであった。

「祭りの間はやめておこう」という計算は破綻した。イエスはまさに祭りの間に十字架につけられた。過越の祭りのただ中で、まことの過越の小羊が屠られた。人間の計画が崩れた場所で、神のご計画が実現した。私たちにも「思ったとおりにはならない」痛みがある。福音が届かない現実、教会から離れていく人々、そして自分自身の中にあるカイアファ的な「隠す」衝動。しかし神は何も隠しておられない。十字架は密室の出来事ではなく、すべての人の前に公然と成し遂げられ、今も御言葉を通して差し出されている。私たちの計算が崩れたその場所にこそ、神のご計画は届いている。