2026年03月08日「隠されたキリストとの出会い」
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隠されたキリストとの出会い
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 25章31節~45節
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聖書の言葉
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」マタイによる福音書 25章31節~45節
メッセージ
マタイ25章31節以下の羊と山羊の審判場面を取り上げた。この箇所でまず目を引くのは、右側の「羊」も左側の「山羊」も、等しく「知らなかった」と言っている点だ。善い行いをした者も、しなかった者も、自分がキリストと関わっていたとは思っていなかった。この対称的な驚きは偶然ではなく、マタイが意図的に描いたものだ。なぜなら「知らなかった」という共通点こそが、この場面の核心だからだ。
なぜ両者とも知らなかったのか。答えはシンプルで、キリストが隠れておられたからだ。飢えた人の顔の中に、渇いた人の姿の中に、病む者のうめきの中に 誰が見ても「これはキリストだ」とわかる輝かしい姿ではなく、気づかれにくい形で。マタイ福音書を貫く「インマヌエル」の約束 神がわたしたちと共にいること の具体的な形が、まさにここに示されている。ルターが「十字架の神学」と呼んだように、神はしばしば苦しみと弱さの中に隠れて現れる。
「最も小さい者」が誰を指すかについては古くから議論があり、宣教師・伝道者とする読み、キリスト者一般とする読み、苦しむすべての人とする読みがある。カルヴァンはマタイのテキスト内の根拠から、共同体の中の弱い兄弟姉妹への愛を語るものとして読んだ。どれか一方に決着をつける必要はないかもしれないが、教会内の具体的な兄弟愛に根を持ちながら、その愛の論理が外へも溢れ出ていく可能性を閉じていないと読むことが、テキストの豊かさに最もふさわしいように思う。
重要なのは、右側の人々の行為が「善行を積もう」という意識から出たものではなかったという点だ。彼らはただ、目の前の人の必要に自然に応えただけだ。これが義人の姿であり、恵みによって生かされた者が感謝から動くときに現れる姿だ。「知らなかった」という言葉は、その行為がいかに打算のないものであったかを示している。
そしてそこに深い慰めがある。わたしたちの日常の一つひとつが、神の目から隠れていないということだ。誰にも気づかれなかった優しさ、評価されなかった誠実さ、黙って続けた祈り。神はそれをきちんと見ておられる。「もっと頑張らなければ」という重荷ではなく、「あなたの日常には意味がある」という宣言として受け取りたい。
人の子の審判は、この世の終わりに突如やってくる出来事ではない。それはわたしたちの今日の日常と深く結びついている。今日、誰かの前に立ち止まるかどうか。疲れた顔の隣人に声をかけるかどうか。そのすべてが、すでに「隠れたキリストとの出会い」の場となっている。わたしたちはそれを知らないまま、それでもその場に存在する。「知らなかった」ことは必ずしも罪ではないかもしれないが、恵みによって目を開かれた者は、やがて自然に、計算なしに、あの場面で立ち止まれるようになっていく それがキリストの命に生きるということではないだろうか。あなたの日常は神の御手の中にあり、その日常の中でわたしたちはすでに、隠れたキリストと出会っているかもしれない。