2026年02月22日「心を騒がせるのではなく」

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心を騒がせるのではなく

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章1節~14節

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聖書の言葉

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」ヨハネによる福音書 14章1節~14節

メッセージ

ヨハネによる福音書14章1節から14節を開いた。舞台は最後の晩餐の食卓だ。裏切り者のユダが席を立ち、イエスはご自分の死を語り始める。弟子たちの心が騒いだのは当然だった。

「心を騒がせるな」というイエスの言葉は、単なる励ましではない。イエスはまず、弟子たちの内側にある不安と恐れを言葉にした。自分でもうまく表現できない心の状態を、「あなたがたは今、心が騒いでいる」と言語化した。わかってもらえた、という感覚がある。それだけで何かが変わる。しかもイエス自身、ラザロの死の前で、ゲッセマネで、この食卓でも心を騒がせた。心の騒ぎを知らない方ではなく、誰よりも深くそれを経験した方だからこそ、弟子たちの騒ぎがわかるのだ。

トマスは「どこへ行かれるのか分かりません」と言った。フィリポは「御父を示してください」と言った。イエスに最も近かった弟子たちが、正直に「分からない」と言った。信仰とは、全部理解してから始まるものではない。分からないままで問い続けることが許されている。むしろ弟子たちの「分からない」という言葉が、イエスのより深い言葉を引き出していった。「分からない」は対話を閉じるのではなく、開いていく。

トマスの問いに対するイエスの答えが、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉だ。これは排他的な宣言ではなく、招きの言葉だ。「道が分からない」と困っている者に、「その道はわたしだ」と示してくださる。道とは教えや体系ではなく、イエスという人格そのものだ。そして行き先も「天国」という場所ではなく、「父」という人格だ。「わたしを通らなければ」という言葉は、裏を返せば「わたしを通ってどなたでも父のもとに来られる」という開かれた招きでもある。

「住む所がたくさんある」とイエスは言った。あなたのための場所がないということはない。そしてイエスが「場所を用意しに行く」と言われた「行く」とは、十字架と復活と昇天という一連の出来事を指している。十字架によって、私たちのための場所が開かれた。

さらに「もっと大きな業を行うようになる」とイエスは言われた。これは弟子たちの能力の話ではない。イエスが父のもとへ行き、聖霊を遣わすことで、イエスの業が弟子たちを通して広がっていくということだ。罪の赦しも、祈りが聴かれることも、すべて聖霊の働きによる。「もうひとりの弁護者」である聖霊は、イエスが去った後も弟子たちと永遠に共にいてくださる。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」。この招きは、分からないままの者にも向けられている。今もイエスは、私たちの騒ぎと分からなさをご存じの上で、「わたしが道だ」と言われる。