2025年03月23日「平和をもたらす信仰」
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平和をもたらす信仰
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ローマの信徒への手紙 5章1節~11節
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聖書の言葉
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。ローマの信徒への手紙 5章1節~11節
メッセージ
今日はローマ人への手紙5章1-11節から「平和をもたらす信仰」というテーマで神の言葉を分かち合いたい。この箇所はパウロが「義とされた信者」に与えられる祝福について語るものであり、特に「神との平和」と「確かな希望」という二つの主要なテーマが織り込まれている。
パウロはこの箇所を「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」という宣言から始めている。これは彼がローマ1-4章で展開してきた教えの要約であり、イエス・キリストを信じることによって、わたしたちは神の前に「無罪」と宣言されたという確信である。この義認の第一の結果として、「神との間に平和を得ている」と述べている。ここでの「平和」は、単なる争いの不在を超え、旧約聖書のヘブライ語「シャローム」の豊かな意味を持っている。シャロームには「完全性・全体性」「充足」「安全と安心」「正しい関係性」という概念が含まれている。
特に注目すべきは、この「平和」が敵対関係から生まれたものだということである。パウロが10節で述べるように、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」のである。罪とは神に背くこと、神から離れて生きることである。神は私たちの創造主であり、生命の源である。神との正しい関係の中にこそ、私たちの本来のあり方がある。しかし罪によって、私たちは神から離れ、自分自身を人生の中心に置くようになった。そこからキリストの十字架によって、この敵対関係が和解へと変えられた。私たちが「敵であったとき」、キリストは私たちのために死んでくださった。この犠牲によって、私たちは神と和解し、神との間に「平和」を得る。宗教改革者のカルヴァンはこの「平和」を「良心の静けさ」と解釈した。神に受け入れられているという安心感は計り知れないものである。
パウロは続けて、信仰がもたらす第二の側面について語る。「神の栄光にあずかる希望」だ。罪によって失われた「神の栄光」が、終わりの日に完全に回復されることへの希望である。
そして驚くべきことに、パウロは「苦難をも誇りとします」と宣言する。それは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という成長のプロセスがあるからだ。希望は筋肉のようなもので、使わなければ強くならない。困難な状況の中で希望を意図的に行使することで、私たちの希望はより確かなものとなる。
この希望が確かなのは「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」からである。神の愛の最大の証拠はキリストの十字架にある。人間の愛は条件付きだが、神の愛は無条件であり、愛される価値のない者に向けられる。
この確信は私たちの行いや感情に基づくものではなく、神がキリストにおいて成し遂げられた客観的な事実に基づいている。かつて神と敵対関係にあった私たちが、今は神との関係そのものを「誇り」とすることができるのである。