2025年03月16日「赦しの連鎖」

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聖書の言葉

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」マタイによる福音書 18章21節~35節

メッセージ

今日は「無慈悲なしもべのたとえ」について共に考えたい。このたとえ話は、私たちが日々直面する人間関係の難しさと、神の無限の恵みに応える生き方について教えるものである。

ペトロはイエスに問いかけた。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」当時のラビたちは「三度まで赦せ」と教えていたから、ペトロの「七回」という提案は寛大なものだ。しかしイエスの答えはペトロを始め弟子達の想像をはるかに超えている。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」これは実質的に「無限に赦せ」という教えである。

そしてイエスは一つの物語を語った。一万タラントンという天文学的な借金を抱えた家来がいた。これは労働者が20万年働いても返済できない金額である。絶望した家来が王に懇願すると、王は驚くべき恵みによって借金を全額帳消しにした。ところがその家来は、自分に100デナリオン(約3ヶ月分の給料)を借りている同僚に対して容赦なく返済を迫り、牢に入れてしまった。この行為を知った王は怒り、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れむべきではなかったか」と言って、その家来を罰した。

この物語は鮮明な対比を示している。一万タラントンは私たちが神に負う罪の大きさを、100デナリオンは他者が私たちに対して犯す罪の相対的な小ささを象徴しているのだ。私たち一人ひとりが神から計り知れない恵みを受けているのなら、互いに赦し合うのは当然の応答ではないか。

しかし、赦すことは容易ではない。傷の痛み、怒りや恨み、プライドや恐れが赦しを妨げる。また、相手の真の悔い改めが見られないとき、赦しと和解は一層難しくなる。社会的にも、報復を美徳とする価値観が赦しの障壁となることがある。

そこで赦しとは何か、正しく理解する必要がある。赦しは相手の行為を容認することではなく、復讐の権利を手放す選択である。そしてこれは一瞬の決断ではなく、時間をかけたプロセスだ。健全な境界線を設けながら、自分自身を怒りと苦しみの鎖から解放する旅なのである。イエス・キリストは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈った。この祈りが私たちの赦す力の源である。私たちが誰かを赦すとき、それはキリストの祈り、キリストの力によるものなのだ。

現代のキリスト者として、私たちは和解の大使として召されている。日常の小さな摩擦から深い裏切りまで、赦し合う模範を示すことが期待されているのである。「赦された者として赦す」生き方こそ、福音の力を最も雄弁に証しするものだ。

今日、あなたはどの立場にいるか。膨大な借金を赦された家来か。小さな借金を求める家来になりそうか。あるいは赦しを請う立場か。いずれにせよ、私たちは皆、神の大きな赦しの物語の中に生きている。この週、赦しの一歩を踏み出す勇気を持とう。それは自分自身を解放する旅の始まりとなる。七の七十倍の赦しは、不可能な要求ではなく、神の恵みへの応答なのである。