2025年03月02日「罪の取り扱い方」
問い合わせ
罪の取り扱い方
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 18章15節~20節
音声ファイル
聖書の言葉
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書 18章15節~20節
メッセージ
今日はマタイ福音書18章15-17節の御言葉から、キリスト者共同体における和解と回復のプロセスについて分かち合いたい。この箇所は単なる教会の手続きではなく、互いへの深い愛と配慮から生まれる関係修復の知恵だ。ここでの本質は回復と和解である。主イエスが何よりも求めておられるのはそのことだ。
イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と教えている。ここで重要なのは、「罪を隠さないこと」の重視だといえるだろう。創世記でアダムとエバが罪を犯した後、彼らは神から「隠れた」。罪を「隠す」行為こそが罪を力強くする。罪は闇の中で躍動し、その人自身をより深く傷つける。
イエスの言葉は罪を暴露して非難するためではなく、隠された罪を光の中に引き出し、癒しと回復をもたらすためのものだ。これは罰ではなく、癒しの行為である。このように和解プロセスの第一歩は「二人だけのところで」直接対話することだ。「忠告する」と訳されている「エレンコー」は単なる非難ではなく、誤りを明らかにし、相手が認識できるよう導く積極的行為である。この対話の目的は何か?「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とある。目的は裁きではなく回復なのだ。イエスは最初に「最小限の公開」の原則を示している。これは相手の尊厳を守る方法である。
最初の試みが実を結ばなかった場合、イエスは「一人か二人」を加えることを教えている。この証人たちは単なる法的な目撃者ではなく、客観性をもたらし、誤解を解消し、和解を促進する仲介者の役割を果たす。前の二つのステップが実を結ばなかった場合のみ、最後の手段として「教会に申し出る」ことが求められる。ここでの「教会」は制度化された組織ではなく、地域の信仰共同体を指す。罪が隠されている限り、それは教会全体に影響を及ぼす。教会は裁きの場ではなく、癒しと和解の場なのである。
「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という最終段階は解釈が難しい。当時のユダヤ社会では「異邦人」「徴税人」は交わりを避けるべき存在だった。しかしイエス自身は異邦人や徴税人とどのように接したか?イエスは徴税人マタイを弟子とし、「罪人の友」と呼ばれるほど社会の周縁にいる人々と積極的に交わった。「異邦人か徴税人と同様に見なす」とは単なる排除ではなく、関係の本質的な変化を意味する。その人は「兄弟姉妹」としての特別な関係からは離れるかもしれないが、それでも宣教と愛の対象であり続けるのだ。
マタイ18:15-17は単なる「教会規律」の手続きではなく、神の家族における和解と回復のプロセスについての深い教えだ。このプロセスの中心にあるのは、罪を光の中に出すことの癒しの力である。罪は闇の中で力を持つが、光の中に出されるとその力は弱まる。私たちの社会は対立を避け、問題に正面から向き合うことを恐れる傾向があるが、イエスは別の道を示している。それは勇気を要する道であり、時に困難を伴うが、真の平和と和解をもたらす唯一の道なのだ。