2025年02月16日「真の愛のために」
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真の愛のために
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 18章6節~9節
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聖書の言葉
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」マタイによる福音書 18章6節~9節
メッセージ
本日の聖書箇所は1~5節と共に読むと理解が進む。18章は弟子たちの集まりである教会がどのようにして健やかさを保つことができるのか。この点をイエスは教えておられるのだ。弟子たちが天の国でいちばん偉い者について問うたとき、イエスは実際の子どもを例に出され、偉大さの本質は外面的な権力や自己主張ではなく、むしろ自らを低くし、素直に神を受け入れる心にあることを示されたのである。この謙虚な心が天の国の基盤であり、恵みの賜物であると改めて実感する。
また、御言葉の中でイエスは「小さな者」を躓かせてはならないと厳しく警告される。ここでいう「躓く」とは、単に足を取られて転ぶという物理的な意味ではなく、信仰の根幹を揺るがす精神的な打撃を与える行為を意味している。かつて、イエスは山上の説教やマルコ、ルカ福音書でも同様の言葉を用いられ、信仰の未熟な者や弱い者の信頼を損ねることの重大な危険性を訴えられた。私たちは日常の中で、些細な言動や配慮の欠如から、知らず知らずのうちに隣人や弟子に大きな転落を招く可能性がある。その責任の重さは、永遠の命への関わりにまで及ぶと理解せざるを得ない。
この御言葉において、イエスはまた、自己の罪や失敗を断固として排除する決意を求める。たとえば、もし片方の手や足、または目が自分を躓かせるならば、それを断ち切る方が良いと強く語られる。これは決して物理的な切断を促すのではなく、罪の根源に対する徹底した拒絶、すなわち自らの弱さや誘惑に対して毅然と立ち向かう覚悟を示しているのである。私自身、日々の生活の中で何度も誘惑に負け、神の御心から離れてしまう危険と隣り合わせであることを痛感するが、こうした厳しい言葉は悔い改めと再起のための愛の招きであると捉えている。
さらに、私たちが自分自身だけでなく、他者に対してもそのような躓かせる行為を慎むべきであるという点は、教会内での共同体のあり方を示している。誰かが自らの不注意や過ちにより、信仰の道を踏み外してしまうならば、その痛みは個人の問題に留まらず、共同体全体に波及する。イエスはその責任の重大さを、家畜が引く大きな石臼や、深い海に沈められるという強烈な比喩で表現される。これらの表現は、罪がもたらす永遠の絶望と、救いの望みを完全に断ち切る恐ろしさを、私たちに強く訴えているのである。
とはいえ、現実には私たちは互いに躓き、また自らも躓く存在である。そのため、悔い改めの思いを忘れずにいたい。イエスがペトロに対して、三度の否認の後にも再び立ち上がるように導かれた例は、私たちに希望と再生の道を示している。ペトロの失敗は、悔い改めとイエスの恵みによって、再び立ち上がったのだ。私もまた、自らの弱さや過ちを認め、神の恵みに委ねて歩む。
このように、今日の御言葉は、私たち一人ひとりが謙虚さをもって神に立ち返り、互いに躓かせ合うことのないように悔い改める勇気を持つことの重要性を強く教えている。イエスの愛は、どんな厳しい戒めにも勝る恵みであり、私たちの弱さを力に変える真実の道である。これこそが、神の国において真に偉大な者となるための、確かな道しるべとなる。