天の価値観
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 18章1節~5節
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聖書の言葉
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」マタイによる福音書 18章1節~5節
メッセージ
本日の説教「天の価値観」は、主イエスが迫り来る十字架の死を前に、弟子たちに対して教会と神の国における真の偉大さとは何かを問いかけられた出来事に基づいている。弟子たちは、これまでペテロという特に目立つ存在や、過去の神殿税の問題などから、自然と「天の国でいちばん偉い者は誰か」という問いを口にしたのである。この問いは、イエスの死が近づく中で、未来の共同体のリーダーシップに対する深刻な問題意識から発せられたものであったと理解できる。一方で弟子達たちの内には、ペテロへの嫉妬やねたみがあったのではないか。人間関係においては、小さな嫉妬の感情が繰り返し顔を出すもの。S他者の成功に対する羨望は私たちの心を乱す大きな要因である。このような感情は聖書の時代から存在しており、私たちもまたその罠に陥りかねないという現実を、イエスはすでに示されておられる。
そこで、イエスは従来の権威や身分制度に基づく常識に挑戦し、真に求められるべきリーダーシップの姿を示すために、一人の子どもを呼び寄せたのだ。イエスは「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と厳かに宣言され、さらに「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉い」と語られた。この御言葉に込められた「子ども」とは、単なる無邪気さや純真さを意味するのではなく、社会的に低い位置に置かれ、権威や自己決定権が乏しい存在としての象徴である。すなわち、神の国においては、地上の名誉や権力を誇示するのではなく、自らをへりくだり、弱さを認める謙虚な心こそが、真の偉大さの証明であると示されているのである。
この逆説的な価値観は、私たち現代人にとっても極めて示唆に富んでいる。自己の才能や実績を誇り、常に上に立つことを望むあまり、私たちは無意識のうちに自己中心的な態度に陥り、他者との比較や嫉妬に心を乱されがちである。しかし、主イエスはそのような誇り高ぶる心を捨て、むしろ自らの弱さや限界を素直に認め、神の恵みにすがる決意を持つようにと、弟子たちに強く呼びかけられているのである。たとえ「そんなの無理だよ」と自分を責める思いが生じたとしても、その正直な感情を隠すのではなく、神に率直に告げ出すことこそが、変革への最初の一歩である。
また、イエスは「わたしの名のためにこのような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と語られた。この言葉は、社会的に取るに足らないとされる存在であっても、神の前で謙虚な心を持って迎え入れるならば、その行為自体がイエスご自身を迎えることに等しいという、逆説的な真理を含んでいるのである。したがって、教会共同体においても、権威や序列ではなく、互いに弱さを認め合い、真心から受け入れ合うことが、神の国の現実をこの地上に実現する鍵となるのである。
この御言葉は、単なる理論や抽象的な教えにとどまらず、私たち一人ひとりの生き方そのものを根本から変革する力を持っている。イエスが自らの十字架に向かわれた姿は、最高の権威に立ち返るためのへりくだった生き様そのものである。私たちが自己の弱さを認め、へりくだる心で神に従うならば、初めて真の偉大さと神の恵みを体験することができるのだ。