2025年01月19日「信仰なき時代の中で」
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信仰なき時代の中で
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 17章14節~20節
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聖書の言葉
一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」マタイによる福音書 17章14節~20節
メッセージ
本日の箇所、マタイによる福音書17章14節以下は、「真の信仰とは何か」を問いかける重要なメッセージを伝えている。山上で栄光の姿を現されたイエスの不在中、山の下では弟子たちが悪霊に取りつかれた息子を癒すことができずにいた。帰ってきたイエスは、弟子たちだけでなく当時の人々全体の不信仰、神への信頼の欠如を嘆かれた。この主イエスの嘆きは、新しい契約の仲介者、新しいモーセとして描かれるイエスが、人々の不信仰に直面したことを示している。
弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由は、イエスによれば「信仰が薄いから」である。イエスはかつて弟子たちに悪霊を追い出す権威を授けられたが、それはイエスへの全幅の信頼、すなわち信仰なしには発揮されない。弟子たちは、授かった権威を自分自身の力のように錯覚したか、イエスの不在によって不安や恐れに心が支配され、信仰が揺らいでしまったのかもしれない。マタイ福音書が強調するのは、イエスへの「全幅の信頼」である。イエスの不在下で人間的な恐れや疑いが生じたとき、信仰的な支柱が揺らいだ結果として権威を行使できなかったのである。
イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言われた。からし種は非常に小さい種だが、成長すれば大きな木になる。これは、たとえ信仰が小さく見えようとも、真実な信仰であれば、神様は不可能と思われることをも可能にしてくださることを教えている。この「からし種一粒ほどの信仰」とはどのような信仰なのだろうか。それは「量ではなく質」、「結果よりもプロセス」と言えるのではないか。重要なのは、信仰がどれだけ大きく見えるかよりも、神に対して真に向かっているかどうか、つまり信仰の「方向性」や「本質的な結びつき」である。からし種が大きく成長していく過程こそが重要であり、信仰生活もまた、日々の歩みを通して神を信頼し続けるプロセスにおいて鍛えられ、深められていく。結果は神が与えてくださるが、それに至るまでに私たちが「神に全幅の信頼を寄せ、委ねる姿勢」を持つことが重要なのである。
イエスは、どんなに小さな信仰でも必ず用いてくださり、想像もできないような偉大な御業を成し遂げてくださる。真の信仰は、単なる知識ではなく、生きた信仰のこと。イエスを信じ、その御言葉に従って生きる時、私たちは大きな御業を体験することができる。
そして、イエスはどんな時も私たちに憐れみを持って接してくださる。失敗した弟子達を優しく包み込んだイエス。失敗や挫折を経験することがあっても、イエスの憐れみに目を向け、再び立ち上がる力を与えられるのである。からし種一粒ほどの小さな信仰を、日々の生活の中で育み、イエスの憐れみと希望を胸に、共に力強く歩んでいこう。