聞くべき声
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 17章1節~12節
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聖書の言葉
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。マタイによる福音書 17章1節~12節
メッセージ
私たちは本日の箇所は「山上の変貌」と呼ばれる箇所。このところにはキリストの真の姿が示されている。多くの人は、山上でイエスが急に神になったかのように思うかもしれないが、そうではない。イエスは初めから神であられたのだ。むしろ、この出来事は、キリストの神としての栄光が一時的に表面に現れ、弟子たちがそこに触れた瞬間だと言える。神の御子であるキリストは、貧しい姿や苦難を負う姿の時も、常に神であった。
この場面を少し前の流れから見ると、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白があった。そして主イエスはご自分が十字架へ向かうメシアであることを教え、真の神であり真の人であることを示された。その教えの六日後、イエスは三人の弟子を連れて高い山に登られ、神の栄光を輝かせる。同時に、モーセとエリヤが姿を現してイエスと語り合う。旧約の偉大な預言者たちが立ち現れ、キリストこそ待ち望まれた救い主であることを証ししているようにも見える。モーセもエリヤも、神の栄光に触れ、人々の不信仰や迫害に苦しんだ末に召された特別な存在だった。彼らの歩みは、イエスがこれから進む十字架の道を象徴するかのようでもある。
そんな光景に魅了されたペテロは「仮小屋を建てて、ここに留まりましょう」と提案するが、それを遮るように天からの声が響く。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。モーセやエリヤ以上に、イエスこそが絶対に聞くべきお方なのだと示されたのだ。弟子たちは恐れてひれ伏すが、イエスは彼らに近づき、「恐れることはない」と励まされる。神の声とは本来恐ろしいほどの力を持つが、それでも神は私たちを滅ぼすためではなく、立ち上がらせるために語りかけてくださる。私たちが罪深さや弱さを抱え、「神の前に出ることなどできない」と思うときでさえ、「恐れることはない」と言って受けとめてくださるのがイエス・キリストである。
やがてイエスは山を下りて、弟子たちを連れて苦難へと向かわれる。そこで「人の子もまた苦しめられる」と預言しながらも、弟子たちと共に歩まれる。この「下る」神こそ、私たちの希望だ。神の栄光を示すだけでなく、私たちのただ中に降り、痛みや葛藤を共に担ってくださるのだ。だから私たちは、今聞いた「恐れることはない」という声を胸に、日常の悩みや罪深さを抱えたままでも安心して歩み出すことができる。キリストは、そんな私たちを拒まず、愛と赦しで迎え入れてくださる。
「これはわたしの愛する子、これに聞け」との天の声に従うとき、私たちは山の栄光と日々の現実を結ぶ新しい希望を見いだす。主イエスは十字架と復活をもって、すべての罪人に向かって「恐れることはない」と語り続けておられる。だからこそ、私たちは自分の正体を神の前に隠す必要はない。悔い改めて、素直にイエスにより頼むとき、主は確かな平安を与えてくださるのだ。この恵みを忘れずに、今日という日に歩み出していきたいと思う。恐れを乗り越える力は、私たちのうちにはなくても、キリストのうちにこそあるのだから。