2025年01月05日「人間の思いか、神の思いか」
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人間の思いか、神の思いか
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 16章21節~28節
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聖書の言葉
このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」マタイによる福音書 16章21節~28節
メッセージ
イエス・キリストがご自分の苦難と死、そして復活への道を示されるマタイによる福音書16章21節以下は、福音書の大きな転換点である。ここで主イエスはガリラヤでの活動からエルサレムへと向かい、そこで宗教当局との対立や十字架刑に至る道を明確に予告されるのだ。この一連の出来事が示すのは、メシアであるイエスが「人々を救うために苦しみと死を受け、神によって復活させられる」という神の計画である。しかし、それをいきなり受け止めることは弟子たちには容易ではなかった。特にペトロの反応は象徴的であり、彼はイエスに「そんなことがあってはなりません」と声を上げるのである。
ペトロの言葉は一見すると、愛する主への優しさから出ているようにも思える。「敬愛するお方が苦しむことなど認められない」という、人間的な親しみや配慮と言ってよいだろう。しかし主イエスはこれを厳しく退け、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者だ」とまで言われるのである。サタンの誘惑は「○○は起こらない/起こってはいけない」という仕方でなされる(創世記3章)。ペトロの口調からイエスはサタンに通じるものを読み取った。そしてイエスはペトロの思いが実は「神の思い」ではなく「人間の思い」に基づいていることを見破った。彼は「メシアであるならば偉大な勝利を収め、苦難など受けるはずがない」という世俗的な期待にとらわれていたのであり、神があらかじめ定めておられた「十字架と復活」の大いなる計画をまるで見ようとしなかったのだ。
このやり取りは、ペトロだけの問題ではない。私たち自身もまた、苦しみや犠牲に直面すると、「こんな道はあってはならない」「なんとか避けられないのか」と神に願うことが多い。しかし主は「その道を通してこそ実現するわたしの思いがある」と問われているのだ。自分の思いが壁にぶつかったとき、私たちは神の御心を認めようとするか、それとも拒絶するか。そこに私たちの信仰姿勢がはっきりと表れるのである。
この後、主イエスは弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と呼びかけられる。「十字架」とは当時最も恥ずかしい刑罰であり、苦しみを意味する。しかしイエスは、神の救いのご計画を成し遂げるためには、その恥と苦しみの道がどうしても必要なのだと示される。人間的な思いでは「避けたい」と思う場面にこそ、神の思いが鮮やかに現れることがある。だからこそイエスは敢えて十字架への歩みを受け入れ、その道を「わたしに従う者にも担ってほしい」と招いておられるのである。
さらに「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者
は、それを得る」というイエスの言葉も大切である。人間は自分を守りたい、損したくないと躍起になりがちだが、そこにこそ本質的な命の喪失が潜んでいる。それよりも、イエスが示される「人間の思いを超えた神の思い」に生きるほうが、真に豊かな命を得る道だという逆説が語られている。「世全体を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」という問いかけは、まさに神が与えてくださる命の価値と、人間の栄光を追い求めるむなしさを対比していると言えるだろう。
ペトロは当初、主イエスの十字架を「そんなことがあってはならない」と拒んだ。しかし後に復活のイエスに出会い、神の計画が十字架と復活を通して実現したことを知り、同じ道を歩む覚悟を得たと伝えられる。彼はかつては人間的な思いに縛られたが、やがて神の思いに生きる者となったのだ。私たちも人生の中で、「こんな苦しみは納得できない」と神に叫ぶことがあるだろう。その時、主は私たちに「人間の思いにとどまるか、それとも神の思いに従うか」と問いかけられるのである。