2024年12月29日「シメオンの歌」

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シメオンの歌

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章22節~38節

音声ファイル

聖書の言葉

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。ルカによる福音書 2章22節~38節

メッセージ

本日は今年最後の礼拝。一年の歩みに感謝をしつつルカによる福音書2章22節から38節を通して示される「希望の光」と「待ち望む信仰」に思いを向けて行きたい。

本日の聖書箇所は3つにわけることができる。第一はヨセフとマリアが神殿に幼子イエスをささげる場面。この場面は旧約時代から続く「初子の奉献」の意義が語られている。出エジプト記13章に由来するこの行為は、イスラエルの初子を生かし、エジプトの初子を撃たれた神の御業と出エジプト=奴隷状態からの解放を記念するものであり、また奴隷状態から民を解放してくださった神の力を思い起こすための大切な伝統である。彼らがもっていたささげものは貧しい者の捧げ物。このいけにえは、彼らが富や名声ではなく、信頼と従順をもって神のもとへ向かった姿を映し出している。このようにイエスはその生涯の最初に両親によってささげられた。。そして、聖書はイエス・キリストがその生涯の最後にご自分をささげられたことを伝える。これは十字架上でご自分をささげたということ。このささげるという行為がキリストの生涯の最初と最後に出てくることは、このお方が捧げられるためにこの世界にこられたことを意味する。神殿での奉献は十字架で御自身をささげられるというキリストの生涯を早くも暗示しているのである。

第二の場面は神殿で幼子イエスと出会う老人シメオンの姿が描かれている。彼はイスラエルの慰めを待ち望み、主のメシアを見るまで死なないとのお告げを聖霊から与えられていた。長く続く暗闇の中、まるで夜明けを待つように息をひそめて祈り続けていたシメオンは、やがて幼子イエスを抱いたとき、「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」という有名な「シメオンの歌」を高らかに歌う。そこには、万民を照らす光でありイスラエルの誉れでもあるイエスを通して、救いと平和が世界へもたらされるという宣言がある。しかし同時に、イエスが「反対を受けるしるし」となり、母マリアは剣で心を刺し貫かれるという痛みの預言も含まれている。救いの完成には闇や苦しみを避けては通れないことが示唆されているのである。

第三の場面は女預言者アンナの存在が語られる。彼女もまた、神殿に住み込み、断食と祈りを続けながら神に仕えていた。幼子イエスを見出した彼女は、エルサレムの救いを待ち望む人々にその幼子のことを伝え、神を賛美する。シメオンとアンナは、ともに長く待つという信仰者の姿を体現しており、その生き方は現代の信仰者にも「希望の証人」として語りかけるものとなっている。

一年の終わりに際し、私たちはそれぞれの物語を背負いながら礼拝堂に集った。毎週の礼拝で私たちはいかなる時にも神が与えてくださる「希望の光」があるという確信を新たにする。そして、ヨセフとマリアのように神の思いに従い、シメオンのように光の到来を待ちつつ祈り、アンナのように周囲の人々へその光を語り継いでいく。年の瀬にあって、ここに集う者一人ひとりが、来る新しい年にも神に導かれ、その光によって支えられながら歩むようにと招かれている。