2024年11月17日「全てを神の栄光のために」

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聖書の言葉

「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。コリントの信徒への手紙一 10章23節~11章1節

メッセージ

キリストを信じる者は日々、自分の自由と他者への配慮の間で選択を迫られることが多い。それらは往々にして具体的な問題だ。こうした具体的な問題を信仰者としてどう考え、振る舞うのかが大切になってくる。パウロもまさに飲み食いといった身近で具体的なことからキリストの真理を伝えている。

パウロは「すべてのことが許されている」というコリントの信徒たちの主張を取り上げる。この主張は、キリストによって律法から解放されたという福音の真理に基づく。しかし、この自由は無秩序や放縦を意味しない。

パウロは自由に二つの制限を示す。第一に、「すべてのことが益になるわけではない」という点で、行動の結果が有益かどうかを考慮する必要がある。第二に、「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」という点で、行動が教会全体の成長に貢献するかを考えるべきであるだと主張する。

さらに、「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」という他者への配慮が重要な原則として示される。これは、イエス・キリストが自らの特権や権利を手放し、私たちの救いのために身を低くされた模範に基づく。

具体的な適用として、パウロは食物の問題を取り上げる。市場で売られているものは、良心の問題としていちいち詮索せずに何でも食べてもよいとする。その理由は、「地とそこに満ちているものは主のもの」(詩編24:1)であり、すべての食物は神によって造られ、神に属するからである。

未信者の家で食事をする場合も、出されたものを自由に食べることができる。これは福音宣教の機会としても重要であり、食卓の交わりを通じてキリストを知らない人々との関係を築くことができる。しかし、誰かが「これは偶像に供えられた肉です」と指摘した場合、その人の良心への配慮から食べることを控えるべきである。

自由の本質について、パウロは「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」と問いかける。確かにクリスチャンには自由があるが、その自由は他者を建て上げ、神の栄光を現すために用いるべきである。

行動の究極的な目的として、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とパウロは語る。神の栄光を現すとは、生活のすべての面で神の性質、神の愛、神の真実を反映させることである。

この目的を達成するために、三つの具体的な行動が示される。第一に、「つまずきを与えない配慮」であり、ユダヤ人、ギリシア人、神の教会の誰に対しても、人を惑わす原因とならないようにすることである。第二に、「多くの人の益を求める姿勢」であり、人々を救うために自分の益ではなく多くの人の益を求め、すべての点ですべての人を喜ばせようとすることである。第三に、「キリストに倣う生き方」であり、パウロがキリストに倣う者であるように、私たちもパウロに倣う者となることである。

私たちは罪によって神の栄光を現す道が閉ざされたが、キリストが十字架によってその道を開いてくださった。キリストの十字架を見上げ、罪赦された者として、神の栄光を現す者とされたことを覚えるべきである。そして神の栄光を現すことは、特別なことをするのではなく、日々の小さな選択の中で他者のために自由を用いることである。それは飲み食いのようなところでも可能なのだ。