2024年11月03日「神の愛とあるべき姿」

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聖書の言葉

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。コリントの信徒への手紙一 5章1節~13節

メッセージ

パウロはコリント教会で起きた重大な罪とそれに対する教会の態度を指摘する。具体的には、ある人物が父の妻、つまり継母と関係を持っているという性的不品行の問題である。これは当時のローマ法でさえ禁じられており、レビ記18章8節でも明確に禁止されている行為。神の民としての基本的な倫理に関わる重大な問題であるにもかかわらず、教会はそれを悲しむどころか「高ぶって」いた。この言葉は継続的な高慢さを表現している。罪に対する適切な反応は高慢さではなく、悲しみであり、問題を直視すべきであるとパウロは訴えている。

パウロはどのようにこの罪の問題を取り扱うのか。3節から5節を見ていく。パウロは「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」と述べている。彼は「主イエスの名により」「主イエスの力をもって」この裁きを行っており、これは個人的な判断ではなく、教会全体として主の権威のもとでなされるべき事柄であることを指摘する。さらに「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」と述べている。この「サタンに引き渡す」という表現は、教会共同体からの一時的な除外を意味する。当時の理解では、教会の外の世界はサタンの支配する領域とされていた。最終的な目的は「主の日に彼の霊が救われるため」であり、懲戒は罰ではなく回復と救いを目指す愛の行為であることがわかる。

続いて、6節から8節。パウロは「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを知らないのですか」と問いかけている。ここで彼は、ユダヤ人にとってなじみ深い過越祭の習慣を用いて説明している。過越祭の際、ユダヤ人の家庭ではすべての家からパン種を取り除き、7日間種なしパンを食べ、新しい始まりを祝う。パン種(イースト菌)は少量でも全体に影響を与え、目に見えないところで働き、時間とともに広がっていく。罪も同じような性質を持ち、一つの小さな妥協がやがて共同体全体に影響を及ぼす。パウロは「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と続ける。過越祭の本来の意味は、エジプトでの奴隷状態からの解放、小羊の血による救い、新しい人生の始まりである。キリストは私たちの過越の小羊として、罪の奴隷状態から解放し、その血によって救い、新しい命を与えてくださった。このパウロの言葉使いには「なりなさい」の前に「すでにある」という重要な神学的原則がある。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という言葉は、恵みが先にあり、その結果として私たちの生き方が変えられていくことを示している。

最後に、9節から13節を見ていく。これはこの世とどう向き合うかという問だ。よくある二つの極端として、世との完全な分離を求めることと、世との区別をなくすことが挙げられる。パウロはこの両極端を避けるように教えている。具体的には、兄弟と呼ばれる者、つまり信仰告白をした者に対しては高い倫理的基準が求められ、愛による懲戒が必要である。一方で、教会外の人々に対しては積極的に関わりつつも、価値観の違いを認識し、伝道の機会とすべきである。パウロは「外にいる人々は神が裁かれる」と述べ、内部の問題には教会が責任を持つべきであると強調しているのはそのためだ。こうした適切か境界線を引くことが、この世との向きあい方だといえるだろう。