2024年10月20日「主は与え、主は奪う」

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主は与え、主は奪う

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ペトロの手紙一 5章8節~11節

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聖書の言葉

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。ペトロの手紙一 5章8節~11節

メッセージ

本日は召天者記念礼拝として、先に召された方々を偲びながら、私たち自身の人生について思いを馳せる時としたい。二つの言葉を紹介したい。まずは「メメントモリ」。これは死を忘れないことを意味するラテン語。古くからヨーロッパの修道院に掲げられている言葉。そしてもうひとつが「カルペ・ディエム」。これは今日を生きることを意味するラテン語だ。死を忘れない、ということは人生の有限さを思いつつ、生も死も全て司る神の御手に信頼することである。そして、そのように神に信頼をする時、今この時は神が与えてくださった時間であることを私たちは感謝する。この二つの言葉を心に留めながら、ヨブ記1章21節と第一ペトロの手紙5章8〜11節から、神の御言葉を学ぶ。

ヨブ記が伝えるのは、人生の無常と神の主権についてだ。ヨブは神を畏れ、正しく生きる裕福な人物だった。しかし突然、すべての財産と愛する子どもたちを失うという試練に遭う。それにもかかわらず、ヨブは「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白した。この信仰の告白は、私たちが理解できない苦難に遭遇したときでも、神を信頼し続けることの大切さを教えている。特に重要なのは、ヨブが苦難の理由を深く追求せず、ただ神を信頼する姿勢を保ち続けたことだ。私たちは苦しみがあると原因を追及したくなる。色々と解釈したくなる。しかしながら全てを知ることはできないし、知ったところで意味がないので神はあえて隠しておられるのだ。そのことを覚えたい。

次に第一ペトロの手紙から、苦しみに耐え、信仰に踏みとどまることについて考えた

い。「身を慎んで目を覚ましていなさい」という言葉は、日々の誘惑や試練に対する警戒を促している。「ほえたける獅子のように」探し回る悪魔の存在は、私たちが常に誘惑にさらされている現実を示す。私たちは絶えず、自分の生きる力を削ぎ落とすかのような現実に直面する。それは老いること、病を経験すること、仕事で失敗すること、試験に落ちること、等だ。こうした現実を前にして私たちは神を疑いたくなる。そうした誘惑にたえず直面している。そうした戦いにおいて信仰に踏みとどまるようにとペトロは語るのだ。この戦いに私たちは一人で立ち向かう必要はない。同じ信仰を持つ仲間たちも同様の苦しみを経験しており、互いに励まし合い、支え合う。教会という共同体の力を信じることが、試練を乗り越える大きな助けとなる。

ペトロはさらに、苦しみの一時性と神の約束について語る。苦しみは永遠ではない。神は必ず私たちを強め、回復する。神は私たちを永遠の栄光へと招いており、現在の苦難を超えた壮大な計画を持っているのだ。

私たちは自分の人生の有限性を認識しつつ、毎日を大切に生きる。試練は確かにある

が、その試練も神の御手から漏れているのではない。むしろ、苦しみや試練を通して神を見つめて成長の機会として受け止め、神の主権を信じ続ける。そして何より、共同体の中で信仰を深め、互いに支え合っていくことが大切なのだ。

最後に皆さんに伝えたいことは、すべての状況において神への信頼を保ち、神の御名をほめたたえ続けることだ。今の苦難は必ず過ぎ去る。苦しみは賛美へと変わる。永遠の希望に目を向けることで、私たちは今を力強く生きることができる。この希望を胸に、今日も共に歩んでいこう。