神の神殿
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 3章10節~23節
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聖書の言葉
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。コリントの信徒への手紙一 3章10節~23節
メッセージ
パウロはコリントの信徒への手紙一3章9節で教会を「神の畑、神の建物」と表現し、10節以後でその具体的な説明を行っている。彼は「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べ、その土台がイエス・キリスト、つまりキリストの福音であることを明言している。この土台はパウロ自身の力ではなく、神の恵みによるものである。
パウロは自らの働きを教会を建て上げることすなわち「教会形成」と理解していた。教会の土台がキリストの福音であるなら、その上に建てられる建物も福音に基づくものでなければならない。改革派教会では、福音の説教、礼典の執行、戒規の3つが教会の目印と理解してきた。これらはすべて、キリストの福音が一人ひとりに行き渡ることを目的としており、神からの恵みである。
この教えは牧師や伝道者だけでなく、私たち一人ひとりにも当てはまる。私たちの人生や家庭の土台は何かと問われている。家庭は小さな教会とも呼ばれ、私たち自身も神の神殿である。土台は唯一キリストでなければならない。しかし、現実には社会的成功や名声、知識、財産などを土台にしようとする誘惑に駆られることがある。これらは一見重要に思えるが、不確かで一瞬にして失われる可能性がある。一方、キリストは「昨日も今日も、また永遠に変わることのない方」である(ヘブライ人への手紙13章8節)。
パウロは続けて、土台の上に建てられる建物について語る(12-15節)。彼は金、銀、宝石、木、草、わらの6つの材料を挙げている。これは耐久性のある材料と燃えやすい材料を示しており、終末の「かの日」に火によって各人の働きが吟味され、その真価が明らかにされることを示唆している。永遠に価値あるものは耐え抜き、自己中心的で一時的なものは焼き尽くされる。損害を被っても土台がキリストである限り救われるが、それで良いと安易に考えてはならない。私たちは終末の時に耐え得る教会を建て上げ、自らも裁きの火に耐える生き方をすべきである。
さらにパウロは「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と問いかける(16-17節)。教会は神の神殿であり、私たちは神の臨在が宿る聖なる場所である。これは大いなる特権であり、同時に大きな責任でもある。神の神殿を壊す者には神の厳しい裁きがあると警告されている。私たちは噂話や中傷、分裂をもたらす行為を避け、互いに愛し合い、励まし合い、赦し合うことで、神の神殿としての教会を建て上げていく責任がある。
パウロは最後に「すべてはあなたがたのもの」であると述べる(21-23節)。私たちが神の神殿であり、神のものだからこそ、すべては私たちのものである。これは神の豊かな恵みの現れであり、私たちはそれを適切に管理する責任がある。
教会にとって必要なのは、教会とは何かを絶えず思い起こすこと。言い方を変えれば神が教会を何であるように意図されているか。この神のビジョンを再び取り戻すことである。教会は神の神殿であり、私たちはその一部として神の臨在を宿している。この事実を深く認識し、教会の本質と使命を再確認すべきである。