2024年10月06日「成長させて下さったのは神」

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聖書の言葉

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。コリントの信徒への手紙一 3章1節~9節

メッセージ

パウロはコリントの信徒たちの霊的未熟さと教会内の分裂を厳しく指摘する。彼らは自分たちを「霊的な者」と考えていたが、その行動は「肉的な者」、つまり未だに「乳飲み子」であることを示していた。この点をパウロは指摘したのだ。

コリント教会は多様な文化的背景を持つ信徒たちで構成され、知恵や雄弁さを重んじるギリシア的な価値観が強く影響していた。その結果、人間的な知恵や指導者のカリスマ性に焦点を当て、教会内での分裂や対立が生じていた。パウロは彼らを「乳飲み子」と呼び、霊的未熟さを象徴する。この呼び方は厳しいものであるが、愛情に根ざしたものであり、彼らが霊的に成長し、成熟した信仰を持つことを心から望んでいることを示す。そのことが1節の「兄弟たち」という言葉からも分かる。

パウロは彼らに「乳」を与え、「固い食物」はまだ与えられないと言う。「乳」は初歩的な教えを、「固い食物」はより深い霊的真理を表している。信仰者は成長するものであり、最初は幼子であっても、そこから成熟へと向かうのが健全な姿である。しかし、コリントの信徒たちは自分たちが未熟であるとは考えず、むしろ他の人よりも上だと過信していた。その結果、ねたみや争いが教会内に生じていた。

ねたみや争いは熱心さから起こることが多い。良いことをしようとする熱心さが過度になると、分裂をもたらす危険がある。遠藤周作は「善魔」という言葉を創作した。悪魔に対して善魔。良いものが堕落すると危険になるということ。このようにバラバラなコリント教会に対してパウロは紙の恵みに留まるようにと助言している。パウロはこの箇所で直接語っているわけではないが、こうした過ちを防ぐにはどうしたらよいだろうか。そのヒントはやはりパウロの自信の教えの中にある。パウロはエフェソの教会への惜別説教の中である神の御計画全体を見据えるようにと助言する(使徒言行録20章27節)。このように一部分だけではなく、神の教え全体を学ぶことが信仰の成熟であり、深まりである。それは簡単にいえば、イエス・キリストを我が主とする信仰へと向かうということだろう。

コリントの信徒たちは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言い、特定の指導者に従うことを誇り、教会内に派閥を作っていた。彼らは人間の知恵や雄弁さ、カリスマ性を基準に指導者を評価し、自分たちの優位性を主張していた。パウロとアポロは「奉仕者」であり、信徒たちが信仰に導かれるための器に過ぎない。パウロは農業の比喩を用いて、神の主権と人間の働きの関係を説明する。「植える者」と「水を注ぐ者」はそれぞれが神から与えられた役割を忠実に果たしているに過ぎない。役割は違うが目的は一緒だ。そしてなによりも種を成長させるのは神ご自身である。

教会は「神の畑」や「神の建物」であり、信徒たちはその中で共に力を合わせる。教会の本質と所有者は神であり、私たちは互いに支え合い、協力し合って教会を築き上げる責任がある。分裂や対立は教会という建物を損なう行為であり、それは神に対する重大な過ちである。パウロのメッセージは私たちが真の霊的成熟を追求し、教会内での一致と協力を大切にするよう強く訴えている。人間的な価値観や評価基準を捨て、神の視点から物事を見つめ、謙遜な奉仕者として歩むことが求められている。教会は神の所有物であり、神が働かれる場である。私たち一人ひとりがその一部であり、互いに協力して神の目的を達成するために召されている。