教会の一致
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- 小宮山裕一 牧師
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コリントの信徒への手紙一 1章10節~17節
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聖書の言葉
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。コリントの信徒への手紙一 1章10節~17節
メッセージ
教会が多くのグループに分かれ、時には喧嘩別れする様子から、教会は争いばかりしているのかと問われることがある。歴史を振り返るとルターとツヴィングリが15の提題で対談し、一つの点で一致できずにもともとひとつだったプロテスタントがルター派と改革派に別れた歴史がある。こうした分裂をどう理解し、一致をどう実現するべきか。本日の聖書箇所はまさにこの問題を扱っている。
パウロは「主イエス・キリストの名によって」コリントの信徒たちに勧告している。彼らをキリストの光の中に招く呼びかけである。パウロは彼らを神に召された者、キリストの光の中にいる者として見つめている。この視点は、私たちも教会の仲間一人ひとりを見る際に忘れてはならない。パウロは具体的なアドバイスを行うが、それに先立ち福音の光で教会を、一人ひとりを見つめている
さらにパウロは「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と求めている。これは単に感情や意見を一致させるのではなく、信仰の核心や目的を共有することを意味している。これはみんなが同じということではなく、それぞれが個性を発揮しながら、キリストにあって一致するということ。それではどのような分裂があったのか。コリントの教会には「パウロにつく」「アポロに」「ケファに」「キリストに」と派閥が生じていた。彼らは人間の指導者に過度な忠誠心を抱き、キリストから目を離していたのである。パウロはこの態度の不合理さを指摘し、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と問いかけている。パウロは洗礼についても触れているのでコリントの人々が洗礼を授けた人に特別な権威を見出していたのかもしれない。そのことの危険性も指摘している。人間のリーダーはあくまでも神がたてられた器に過ぎない。パウロは自分の使命は洗礼を授けることではなく、福音を告げ知らせることであると述べている。「言葉の知恵によらないで」とはこれは当時の思想や哲学に頼ることはなく、ということ。こうした知恵に頼らないで福音を伝えることで、十字架のメッセージをより鮮明にしている。ただキリストの十字架が伝われば良い。それがパウロの確信である。そしてこの十字架から目をそらしたことにこそ、コリント教会の分裂の根本原因がある。
私たちもまた、キリストの十字架に目を向ける必要がある。地上では派閥や分裂が生じる。これは避けられない。ただし、その時に、キリストを真剣に見上げていくのであればそれは教会の多様性となる。パウロが戒めているのは、信仰の純粋さからではなく、自分自身の好みや意見が教会の一致を妨げることだ。
パウロのメッセージから学ぶべきことは、キリストにある一致と十字架の力への信頼である。人間の指導者や知恵に頼ると、教会は分裂し、福音の力を見失う。しかし、キリストに焦点を合わせ、十字架のメッセージを中心に据えると、教会は真に力強くなる。指導者はそのためにたてられているに過ぎない。そしてなによりもパウロが語っているように、十字架のメッセージは人生を変える力を持っている。キリストにある一致を追求し、十字架のメッセージを中心に据えることで、教会は教会らしくなり、教会としての使命を果たすことができる。