2024年09月22日「夕べになっても光がある」
問い合わせ
夕べになっても光がある
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ゼカリヤ書 14章6節~9節
音声ファイル
聖書の言葉
その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。ゼカリヤ書 14章6節~9節
メッセージ
本日の聖書箇所に登場する印象的な言葉は、「夕べになっても光がある」である。夕方は通常、光が失われて闇が訪れる時間。しかし、聖書ははっきりと「夕べになっても光がある」と述べている。これは信仰において非常に大切な要素だ。
この「夕べになっても光がある」といわれているのは、「主の日」。ゼカリヤ書14章1節に「主の日」とあり、それは6節の「その日」、7節でいわれている「ただひとつの日」のこと。この日は主のみ、つまり神のみぞ知る日であり、昼も夜もない。夕べになっても光がある。そして11節によれば、その日には「破滅が再び望むことはな」い。何かが壊れることはないのだ。主が唯一の主となり、全ての全てとなる日である。私たちの周りには様々な力や事柄が動いているが、主の日にはそれらがすべてなくなり、神が全ての全てとなる。神は愛であり、その愛と恵みがこの世界を全て包む日が「主の日」である。
このような日は夢物語のように思えるかもしれないが、かつて主が全ての全てだった日がある。それは創世記の1章から2章にかけて記されている。世界ができて間もない時、全ては満たされ、調和を保っていた。主なる神がいて、神に造られた人間をはじめ、あらゆるものが神を中心として一致していた。しかし、罪がこの世界に入り込み、バランスを崩し、苦しみが生じた。
この世界は苦しみの中にあるが、それは当たり前ではない。もともとなかったのに入り込んだのである。そしてこの罪を解決するためにイエス・キリストがこの地上に来られた。キリストによる罪からの解放を経て、この世界が再びかつてあった日を取り戻すこと、いや、さらに良い日に向かって行くことが「主の日」である。
信仰とはこの主の日を待ち望むことであり、信仰者とはこの主の日を待ち望みながら生きる人である。その日がどのような日なのかを記すのがヨハネの黙示録である(21章1節~22章5節)。21章3節から4節には、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる、とある。神が自ら人と共にいて、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死も悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。さらに、22章1節から5節には、命の水の川が神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝いている。川の両岸には命の木があり、年に十二回、毎月実を結ぶ。その葉は諸国の民の病を治す。もはや呪われるものは何一つなく、神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。もはや夜はなく、神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治する。
この「主の日」を目指して歩む私たちにとって、「夕べになっても光がある」という約束は、どれほど困難な状況にあっても希望を失わずに前進できる力となる。人生の「夕べ」、すなわち試練や困難が押し寄せる時にも、神の光が私たちを照らし続けてくださる。
そして、その神が私たちの人生を治めてくださる。それは光の中を歩むということである。ゼカリヤ書14章9節では、「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」と宣言されている。これは、神が全地の王となられ、すべての権威と力が神に帰する時が来ることを示している。
私たちは、「主の日」が必ず来るという確信を持ち、その日を心から待ち望む者。現実の世界では、不安や混乱、痛みが存在するが、神の約束に基づいて希望を持つことができる。このお方を見上げる時、私たちはもう光りの中を歩んでいる。