2024年08月25日「見ないで信じる者になる」

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見ないで信じる者になる

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 20章24節~29節

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聖書の言葉

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネによる福音書 20章24節~29節

メッセージ

キリストの弟子のひとりであるトマスは、他の弟子たちがイエス・キリストの復活を証言しても、それを信じることができなかった。実際にこの目でイエスの傷跡をみなければ信じない。トマスはそう主張し続けた。確かに、死んだ人が復活するというのは、常識では信じ難いことである。目に見える証拠がなければ、信じるのは難しい。現代の私たちも、ファクトやロジック、証拠を重んじる世の中で生きている。そのため、トマスの「証拠を見なければ信じない」という態度は、私たちの姿勢と重なるところがある。

しかし、トマスはただの疑り深い人ではなかった。彼は非常に正直な人物だった。自分が信じられないことを素直に認め、他の弟子たちに流されることなく、自分の疑念を持ち続けた。トマスが信じたくなかった理由の一つには、キリストに対する失望と裏切りの自責の念があった。トマスは、自分たちがキリストを裏切ったことで、キリストが復活したのは復讐のためではないかと恐れていたのだ。しかし、イエス・キリストは復讐のために復活したのではなく、トマスを愛し、彼を信仰へと導くために復活されたのである。

最初に弟子達の前に現れてから8日後、イエス・キリストは再び弟子たちの前に現れ、疑うトマスに「自分の指をここにつけよ」と語りかけられた。この行動は、イエスがトマスの疑いを理解し、彼の信仰を助けるために、自らの傷を見せるという形で応えたことを示している。この時、部屋のカギは閉まっていた。イエスは、物理的な壁を越えてでも、弟子たち、特にトマスと出会うために現れたのである。これは単なる奇跡の話ではなく、イエスが私たち一人ひとりの心の扉を開くために来てくださることを象徴している。

イエスがトマスの疑念に応えるために現れたのは、証拠を見せるためだけではなかった。イエスの目的は、トマスに平和を与えることだった。イエスが「平和があるように」と語られたのは、復活がもたらす究極の平和をトマスに体験させるためである。復活したイエスの姿を見ることによって、トマスは自らの疑念や恐れから解放され、平和を得ることができた。この平和は、死を超えた命の力強さを示している。イエス・キリストが復活されたことによって、死はもはや終わりではなくなったのだ。トマスの信仰告白は、私たちにとっても大きな意味を持つ。トマスはイエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。この言葉には、イエスが真に神であり、復活した主であることを信じたトマスの確信が込められている。トマスのこの告白は、彼がイエスの言葉と姿を見て、その愛を感じた結果として生まれたものであり、信仰とはまさにこのようなものである。私たちもまた、目に見える証拠を求めがちであるが、信仰とはイエスとの深い関係に基づくものであり、ただの証拠では満たされないものなのである。

イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られた。この言葉は、トマスだけでなく、私たちにも向けられた祝福の言葉である。私たちは直接イエスの復活を目にしていない。しかし、聖書の証言や他の信者の証言に基づいて信じている。信仰とは、目に見える証拠がなくても、イエスの言葉と行いを信じることから始まる。イエスの言葉を聞き、イエスの行いをみて、イエスとの関係を築くことで、私たちは信仰を深めていくのだ。