2024年08月11日「批判者を退けるイエス」
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批判者を退けるイエス
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 16章1節~12節
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聖書の言葉
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。マタイによる福音書 16章1節~12節
メッセージ
マタイによる福音書16章1〜12節では、イエスが批判者であるファリサイ派とサドカイ派に対して取った態度が描かれている。これらの宗派は通常は対立しているが、この場面では共にイエスに「天からのしるし」を求めた。彼らの目的はイエスを試すことであったが、イエスは彼らに「ヨナのしるし」以外には何も与えられないと述べた。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩魚の腹にいたことを意味する。これはイエスが十字架にかけられ復活する出来事の予表である。ヨナのしるしのみが天からのしるしだというこの言葉は、イエスが十字架と復活の出来事こそがしるしであり、それは天からつまり父なる神の思いによってなされる出来事だということ。そしてこの十字架と復活によってイエス・キリストもまた天から送られてきた救い主、つまり神の子であることを証明するという意味を持つ。
イエスはさらに、しるしがあるから信じるのではなく、しるしがなくても神を信じる信仰こそが真の信仰であると教えている。現代においても多くの人が目に見えるしるしを求めるが、イエスはそのような態度に対して警告を発しているのだ。イエスの言葉には、神を試すことが悪魔の誘惑に等しいという厳しい指摘が含まれている(ファリサイ派の人々はイエスを試したがこの「試す」は4章にある悪魔の誘惑における「誘惑」と同じ)。しるしがないことを理由に信仰を捨てるのではなく、神に対する信頼を持ち続けることが求められている。
また、イエスは弟子たちに対してファリサイ派とサドカイ派の「パン種」に注意するように警告している。ここでのパン種は、彼らの教えが信仰に悪影響を与える危険性を示している。ファリサイ派の律法主義や形式主義、サドカイ派の現世主義や懐疑主義が信仰を損なう可能性があり、これに対して警戒する必要がある。パン種の比喩を通じて、イエスは弟子たちに彼らの教えに惑わされないよう求めたのである。
しかしながら、しるしがまったくないというのではない。先にも触れたようにイエス・キリストの十字架と復活はこのしるしである。そして、この復活を信じ、復活の命にいかされる者が集う教会は神の働きのしるしであり、その存在と活動が信仰の証しである。教会の歴史、礼拝、一つ一つの活動などはすべて、神の愛と導きの具体的な現れであり、信徒にとって信仰を深めるためのしるしとして機能している。この視点から見れば、すでに神の恵みが存在していることに気づくことができる。わたしたちは何もしるしを探さなくてもよいのだ。
イエスは、神がすでに与えている恵みに目を向けることを強調している。パンの奇跡のエピソードで、弟子たちに残ったかごの数を思い出させることで、神の恵みが豊かに与えられていることを示した。このエピソードは、神が生きておられる証拠であり、イエスが天から遣わされたことのしるしである。
最後に、私たちもまた、神が与えてくださった恵みを忘れることなく、常にそれを思い起こすことが求められている。イエスが示したように、過去の神の恵みを振り返ることで、現在の信仰を支える力とするべきである。