2024年08月04日「何度でも、何度でも」

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何度でも、何度でも

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章29節~39節

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聖書の言葉

イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。マタイによる福音書 15章29節~39節

メッセージ

本日の説教箇所であるマタイによる福音書15章29節から39節は、イエス・キリストがガリラヤ湖のほとりで多くの病人を癒し、続いて4000人の群衆に食物を供給する奇跡を行った場面である。人々を癒すお方としてのイエスはすでに何度も登場してるし、多くの人々を満腹させるイエスの御業もすでに5000人の給食の場面で描かれている。その意味でこれは反復である。しかし、イエスは同じような奇跡を何回も行ったとしても不思議ではない。「愛は反芻」なのである。

まず、イエスはガリラヤ湖のほとりから山に登り、そこで静かに過ごそうとされるが、多くの群衆がイエスのもとに集まり、病を抱える人々をイエスの前に連れてくる。イエスは彼らを拒むことなく、憐れみをもって癒しの奇跡を行い、彼らの病を癒していく。ここでイエスは、祈りや教えのために静かな場所を求めつつも、人々の苦しみを見過ごすことなく、その必要に応えておられる。イエスが病を癒す姿は、神の恵みと愛が具体的な行動を通して現れることを示している。

次に、イエスが行った食物供給の奇跡について考える。この出来事は、以前に記された5000人の給食の奇跡と非常によく似ている。しかし、この奇跡の背後には、イエスが異邦人に対しても同じように愛と恵みを示していることが見て取れる。5000人の給食はユダヤ人向けであり、4000人の給食は異邦人向けであるとされている。この2つの奇跡がそれぞれ記されていることは、イエスの救いがユダヤ人だけでなく、すべての人々に広がっていることを示すものである。

イエスが行った2度目の食物供給の奇跡は、異邦人の伝道が終わりに近づいた時期に行われたものであり、それは送別会のような意味を持っていたのではないかと考えられる。イエスはユダヤ人と異邦人の双方に対して送別の宴を設け、次に行われる最後の晩餐を予告するような形でこの奇跡を行った。この送別会は、聖餐式の原型とも言えるものであり、イエスが人々のために命を投げ出し、彼らを救うために十字架にかかることを示唆している。

この奇跡を通じて私たちは、イエスがすべての人々に対して恵みを与え、満たしてくださる神であることを再確認する。そして、この奇跡の背後には、イエスの愛が何度でも、何度でも私たちに注がれ、私たちが忘れやすい者であっても、繰り返し恵みを与え続けてくださるという深い意味がある。

神の恵みや愛を何度でも、何度でも思い出し、感謝し、賛美することが私たちの信仰生活において大切ではないか。忘れやすい私たちに対して、神は何度でも同じ恵みを与え、私たちを立ち上がらせてくださる。その恵みによって私たちもまた、他者を愛し、神を賛美する者となるように変えられていくのだ。