2024年07月21日「何が人を汚すのか」
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何が人を汚すのか
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 15章1節~20節
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聖書の言葉
そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」マタイによる福音書 15章1節~20節
メッセージ
本日の聖書箇所では、食事の前に手を洗うかどうかという「言い伝え」を巡るイエス・キリストとファリサイ派の人々の論争である。ファリサイ派の人々は、伝統的な洗浄を守ることで自分たちが神に忠実であると思っていた。しかし、主イエスは彼らの質問に対して、神の掟を守らずに自分たちの伝統を優先していることを指摘する。イエスは、彼らが「コルバン」という規則を使って両親を敬う戒めを無効にしていることを非難するのだ。コルバンとは、財産を神に捧げるという誓いだが、それにより両親に財産を与えることができなくなる。イエスは、これが十戒の「父母を敬え」に反していると指摘する。
なぜ彼らがそこまでして親に物をあげたくないのか。それは親を憎んでいるからだ。親よりも神を大切にしたいという態度は一見すると良いように見えるがその実、親を嫌っている可能性が高いのだ。その心の中のトゲトゲした思いが人を汚すのである。
信仰者として、神や聖書という言葉をよく使うが、その言葉の背後にある本当の思いを考えなければならない。十戒で「主の名をみだりにとなえてはならない」という教えは、主の名を自分勝手に使ってはならないということだ。親が子どもに「父母を敬え」と書いてあるから言うことを聞けというのは、子どもに反論を許さない態度である。十戒の教えは、親も子どもから尊敬を受ける存在になろうという意味が込められている。それを抜きにして、一方的に押しつけるのは、敬虔なごまかしであり、信仰深いようで実は自分の思いを隠していることがあるのだ。
イエスは、「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と言う。外部からの汚れではなく、内部からの汚れが重要である。心から出るものこそが人を汚すのだ。悪い思い、殺人、姦淫、盗み、偽証、冒涜が心から出てくるのであり、洗わない手で食べることは人を汚さない。このように、イエスは、真の汚れとは何かを教えているのである。
何か悪いことがあると、自分ではなく、人のせいにしたがるのも同様かもしれない。しかし、どうだろう。それでは自分の心はどうだろうか。何かと、まわりのせいにしたがる。さきほどの主語の話でいえば、国とか社会とか、そうしたせいにしたがる。しかし、自分はどうだろうかと。結局、なんだかんだいっても汚れているのは自分の心ではないのか。主イエスの言葉は、私たちひとりひとり、神の民に対する言葉でもある。自らの心の有り様を考える時、絶望的な気持ちになるかもしれないが、私たちはどうすればよいのか。
そこで今一度、この言葉がイエス・キリストによって発せられた言葉であるということを覚えたい。そのような私たちのために、イエス・キリストは十字架に向かい、罪を引き受けてくださったのだ。私たちは自分の力でどうすることもできない、この汚れ。この汚れからくる悲惨をキリストはすべて引き受けてくださった。私たちはここにより頼むしかない。
パウロはキリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したことを伝えている。これが、新しい言い伝え。汚れが心の中から来るとしても、この心も体もすべて、キリストの血潮がきよめてくださるのだ。このキリストにより頼もう。