2024年06月16日「イエスにつまずくもの」
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イエスにつまずくもの
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 13章53節~58節
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聖書の言葉
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。マタイによる福音書 13章53節~58節
メッセージ
イエスは故郷のナザレで会堂に入り、そこで人々に教えられた。おそらく、13章でこれまで語られてきた天の国の教えや、山上の説教で語られたことをナザレの人々にお語りになったのだろう。しかしながら、人々は彼の出自と以前の仕事から、その教えを信じることができなかった。これは彼らが自身の狭い世界観に囚われ、イエスの言葉が示す神の国の視点を受け入れられなかったためである。人々は、イエスを単なる大工の息子としか見ず、彼の言葉の真の価値を理解できなかった。
この不信は、イエスの知恵と奇跡に対する驚きから生じた疑問、そして彼とその家族に対する個人的な知識に基づいていた。彼らは、イエスが幼少期から青年期までを過ごしたナザレで、彼をよく知っていた。しかし、その知識は、彼らがイエスの教えを理解し、受け入れることを妨げる障害となった。
人々の不信は、イエスに対するねたみや嫉妬も根底にあった可能性がある。人々は、イエスが高度な知識を持ち、尊敬を集めていることに対して、不満や敵意を抱いていたのかもしれない。このねたみや嫉妬は、彼らがイエスの教えを受け入れることをさらに困難にした。
イエスは、人々の不信と拒絶という罪に直面しながらも、教えを説き続け、神の国の到来を告げ知らせた。これは、私たちが日常生活で直面する無理解や嫉妬、そして罪の現実と重なる。私たちは、家族や友人、同僚など、身近な人々から誤解されたり、拒絶されたりすることがある。また、他人に対する嫉妬やねたみに苦しむこともある。
しかし、イエスは十字架の苦しみを通して、私たちの罪を赦し、私たちが神の国へと向かう道を切り開いた。イエスの十字架は、神の愛と赦しの究極の表現である。私たちは、イエスの十字架の犠牲を心に留め、信仰の旅路を歩み続けることができる。
イエスの故郷での拒絶は、私たちの信仰生活における葛藤と試練を象徴している。私たちもまた、故郷から離れ、旅人として歩みを続ける。故郷は具体的な場所ではなく、居心地の良い場所のことだ。居心地の良い場所を離れ、神の国に向かう時、私たちが自身の狭い世界観を超え、神の広大な愛と恵みに目を向けることを意味する。
この物語は、私たちが直面する困難や試練の中で、イエスの十字架の力と神の愛に信頼することの大切さを教えている。私たちは、イエスの後に従い、神の国の到来を待ち望みながら、信仰の旅路を歩み続けることができる。たとえ周囲の人々から理解されなくても、私たちは神の愛に支えられ、信仰を深めていくことができる。
イエスは、私たちが罪と闘い、信仰を深めることができるように、十字架の苦しみを受け入れた。私たちは、イエスの犠牲を心に留め、神の愛に信頼しながら、信仰の道を歩んでいくことができる。たとえ困難や試練に直面しても、私たちはイエスの力によって、希望と勇気を持って前進することができる。