2024年06月09日「天の国のたとえ」

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聖書の言葉

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」マタイによる福音書 13章44節~52節

メッセージ

マタイによる福音書13章44節~52節は、天の国とその教えを理解する弟子たちのたとえを通して、神の国の価値と発見の喜びを説いている。キリストの弟子たちは、天の国のたとえを理解し、天国学を学んだ学者として、神の国の教えを自由に語る資格と自由を得たのである。私たちは聖書から神の言葉を学ぶ。そして、同じ信仰をもつ人からも神の国の教えを学び、それを分かち合うことができるのだ。神の国の教えは、一人の教師から弟子へと伝えられ、さらにその弟子たちがまた別の人々に伝えていくという、連綿と続く学びの連鎖の中で受け継がれていくものである。

それでは、神の国を学んだものはどのようにして恵みを見いだすのだろうか。神の恵みは、宝探しのように、思いがけない場所で発見されることがある。本日の聖書箇所にまずでてくるのは畑で見つかる宝のたとえ。これは思わぬところにある神の恵みを見いだす喜びを伝える。そして、旧約聖書において、神の知恵は宝だと例えられ、詩編119編75節では神の知恵や教えの価値を、金銀に勝るものとして強調している。この宝を見つけることは信仰の喜びへとつながるのだ。宝を見つけた者は、その喜びのあまり、全ての持ち物を売り払ってでも畑を手に入れようとする。これは、神の国の教えが、私たちにとってどれほど価値のあるものかを物語っている。また、高価な真珠を見つける商人のたとえは、神の国の価値を理解し、それを手に入れるために全てを犠牲にする覚悟を問いかける。これは、信仰における優先順位の重要性を示しており、私たちが何を本当に大切にすべきかを考えさせられる。

天の国のたとえに登場する畑、パン、真珠、網は、私たちの日常を表している。神の国は、特別な場所ではなく、私たちの身近な生活の中に存在するのだ。祈りと期待をもって神の恵みを探し求めよう。見つけた時の喜びは、他の何物にも代えがたい。それは、まるで宝探しで貴重な宝物を発見した時のような、この上ない喜びである。

マタイによる福音書13章44節~52節は、天の国のたとえを通して、神の国の価値と、それを発見する喜びを伝えている。私たちは、聖書や過去の信仰者や自分の周りの人々を通して天国学を学び、神の恵みを日常の中で見つけることができるのだ。信仰は、私たちにとって喜びであり、宝探しのようなものである。神の国の教えを理解し、それを実践することで、私たちはより豊かな人生を送ることができる。それは、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさをもたらすものであり、私たちの人生を真に価値あるものへと導くのだ。