2022年07月03日「義に飢え乾く」
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義に飢え乾く
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
「 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
聖書において、義というのは2つの意味で用いられる。1つはパウロ的な意味における義。これは、神との関係といってもよい。義というのは正しいという意味。神と私の関係が、正しいかどうか。正しいというのはこれは正常という意味。信仰によって義とされる、信仰義認、とよばれるのはこの義である。そこにあるのは神と私の関係。この関係が罪によって壊れている。しかし、それが回復するというのが、聖書のメッセージである。もう1つが、人と人の間における義。人間の社会において、正しくある。なすべきことがなされている状態。それが義である。
神は、私達が神との義、それは救いといってもよいのだが、ただ救われているだけでよしというのではなく、この世界に社会的な正義がきちんともたらされるようにとそう願っているのである。そして、マタイによる福音書の義はいま申し上げたような、私達人間関係における義である。正義である。
正義。これはきわめてまったくもって、私達に身近なテーマではないだろうか。正義がどのようにして私の周りに、そしてこの世界に実現していくのか。もたらされていくのか。これはとても大切なことではないか。信仰と無関係だと考えない方がよい。正義がきちんと機能してこそ、私達の教会もまた、いつも通りの活動を行うことができるのである。そして、この正義を巡っては、不正との闘いということについては、やはり、今も昔もかわらない闘いがある。
複雑なのはこの正義がただ単に悪と対立するというだけではなく、正義同士が対立するということである。そこに私達の難しさがあるのではないか。何が正義で何が悪なのか。単純に考えることができない。そのような時代を私達は生きている。そのように生きるときに、私達は義に対して飢え乾くことをしなくなるのではないだろうか。神によってこの世界に正義がもたらされることを望まなくなるのではないだろうか。義について考えるのがややこしくて思考停止になるのではないか。また、世界のどこかで誰かが苦しんでいても自分には関係ないと冷めた態度をとるのではないか。今、申し上げた義、正義の持つ複雑さ。こうした複雑さも私達を無気力、つまり義に対する思いを削ぐのかもしれない。
それでもなお、イエスはいうのである。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」。この約束は義が満たされることの約束である。そしてそれは、逆説的ではあるが義に飢え乾くようにということではないか。もっと、義を求めるようにというのである。主が満たしてくださる。この約束を忘れるなというのである。
どうしてイエスはこのようにいわれたのか。それは、神が不正の中にあっても、決してこの世界をあきらめない御方だからである。だから、私達も諦めない。義を求める。それは飢え乾くということである。どこまでいってもこの世界では完全に義が実現することはないかもしれない。しかし、そのような時代だからこそ、義を追い求めたい。主に願いたい。満たされることを信じて。