2024年06月02日「天の国の現れ」
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天の国の現れ
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 13章24節~43節
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聖書の言葉
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」マタイによる福音書 13章24節~43節
メッセージ
マタイによる福音書13章は、イエス・キリストが語られた一連のたとえ話を通して、神の国とその性質、そして神の国の民の生き方について、重要なメッセージを伝えている。この章は、種を蒔く人のたとえ話から始まり、毒麦のたとえ話、からし種のたとえ話、パン種のたとえ話と続く。それぞれのたとえ話は独立しているように見えるが、互いに関連し合っている。まず、毒麦のたとえ話は、神の国における善と悪の共存、そして神の忍耐と寛容について教えている。このたとえ話では、良い麦と毒麦が同じ畑で成長する様子が描かれている。畑の主人は、毒麦をすぐに抜いてしまうと良い麦まで傷つけてしまう可能性があるため、収穫まで待つことを選ぶ。これは、神が最終的な審判まで待ち、全ての人に悔い改めと成長の機会を与えるという、神の深い愛と忍耐を示している。
このたとえ話は、私たちの日常にも当てはまる。私たちの周りには、信仰を持つ者と持たない者、善を行う者と悪を行う者が混在している。しかし、神は全ての人を愛し、彼らが悔い改め、神の国へと導かれることを願っている。
次に、からし種のたとえ話は、小さな信仰が大きな影響力を持つ可能性を示している。からし種は非常に小さな種であるが、成長すると大きな木になり、鳥たちが巣を作るほどの大きさになる。これは、私たちの信仰が小さくても、神によって大きく成長し、多くの人々に影響を与えることができるという希望を与えてくれる。このたとえ話は、旧約聖書のダニエル書4章に登場する巨大な木と対比されている。ダニエル書の木は、バビロン帝国の繁栄と威勢を表しているが、やがて切り倒されてしまう。一方、からし種のたとえ話の木は、神の国を表しており、永遠に成長し続ける。これは、神の国がやがてこの世の全ての国々を超える存在となることを示唆している。
パン種のたとえ話は、信仰が目立たないところから社会全体に浸透していく力を表現している。パン種は少量でも、小麦粉全体を膨らませる力を持っている。同様に、私たちの信仰も、たとえ小さくても、社会全体に良い影響を与えることができるこのたとえ話では、三サトンの小麦粉が使われるとされている。これは約38リットルに相当し、100人分のパンを作るのに十分な量である。当時、これだけの量のパンが用意されるのは、祭りの時だった。つまり、パン種が膨らむことは、神が開く祝宴、つまり神の国への招きを表していると考えられる。
最後に、イエスは弟子たちに毒麦のたとえ話の説明をされる。ここでイエスは、良い種を蒔く者がご自分自身であり、畑は世界、良い種は神の国の子ら、毒麦は悪い者の子らであると説明する。そして、最終的な審判において、正しい者は神の国で輝き、悪い者は滅ぼされると語る。これらのたとえ話は、私たちに神の国とその性質、そして私たち信徒の生き方について多くのことを教えている。神の国は、小さく始まるが、やがて大きく成長する。神の国の伸展は御言葉の力によってなされる。主の御国の伸展がなされますように祈ろう。