2022年07月31日「憐れみ深く生きる」
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憐れみ深く生きる
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
7節にはこう記されている。「 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」この7節の御言葉を前にするとき、自らにとう。果たして自分は憐れみ深い人間なのだろうか。
憐れみ深い人は存在する。しかしながらどんなに憐れみ深くても他人に対して憐れみを持つことに対して限界がある。誰かに対して共感を示しても逆に反感を招くこともあるだろう。またこちらが憐れみだと思っても善意の押しつけのように思われることもある。憐れむこと、憐れみ深くあること。これは単純ではない。
しかし、だからといって、難しいよね、ですますことはできない。主イエスが憐れみ深い人の祝福を語っているのだ。主イエスはなぜこのようなことを言われたのだろう。この憐れみも、これまでと同様、イエス・キリスト、このお方の働きと重ねてかんがえなければならない。そこで、主イエスはこの憐れみについてなんと教えているのだろうか。6章14,15節にはこう記されている。「 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」これは主の祈りの教えの一部。主の祈りは山上の説教の中の一部を構成する。じつは両者には密接な関係がある。6章14,15節では、罪の赦しについて語られる。誰かが犯した罪を赦すのであれば、自分の罪を赦していただける。その教えである。
なぜ、罪の赦しが憐れみと重ねて語られているのだろうか。それは、この憐れみという言葉が法律用語だからである。古代の裁判において、被告が裁判官に刑の減刑を求めることはよく行われていたようである。少しでも刑を減らして欲しい。そうした願いを聞く時の裁判官の様子がこの憐れみである。やはり、心動かされるのだろう。その結果、どうなるのかがやはり大切である。罪が赦されるのである。その犯罪人の罪が赦される。それが、憐れみである。つまり、この憐れみは私たちの罪の赦しについてこの事柄。自らの罪を赦していただく。そして、誰かを赦す。こうしたことがこの憐れみなのである。憐れみは、心の中の動きではなく、具体的な行為となって現れる。
旧約聖書では、この憐れみは神の愛そのものである。旧約聖書のホセア書にこの憐れみが登場する。どのように登場するのか。それは、夫を裏切った妻に対して真実な愛をもって向かい合う夫の姿によって描かれる。これは、神さまと神を裏切り続けた神の民、イスラエルの姿である。つまり、神はどこまでも憐れみ深いのである。罪の赦し。神の愛。これは神から与えられるものである。
5章7節に戻る。このところで憐れみ深い、といわれているのはこれは他人に対して同情的であることにとどまらない。罪を赦していく。その生き方である。このような歩みはキリストにあって罪赦されて可能になる。罪赦された者として罪を赦していく時、私たちは憐れみ深い人に与えられる幸をいただく。