2022年08月07日「心を神に向ける人」
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心を神に向ける人
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- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
「心の清い人は、幸いである。その人たちは神を見る」(8節)。もちろん、ここで言う「見る」とは肉眼で見るということではない。神は霊である。それは肉体的な限界を持たないお方ということ。見るというのは神を肉眼でみるかのように近く感じるということ。もしくは、神の世界を見るということ。それはこのお方に思いが向いているということ。
どのような人が神を見るのか。主イエスは言う。心が清い人。この人が神を見る、と。つまり、神を見るためには心が清くなければならない。心が清い。心の清さが問われている。あなたの心はどうか。清いだろうか。
私たちは知っているはずだ。この清さを追い求めるのは非常に困難な歩みであるということを。清さを妨害するものが満ちている。聖書では特に姦淫と偶像崇拝をこの清さから遠いものとしてあげている。肉体において性的な罪を犯すことと、信仰において神以外を神とすること。両者とも本来向かうべき対象からずれている。本来愛するべき存在、信じるべき存在から心が離れること。神から遠く離れていくので言葉を換えればこれは罪。
罪。これは汚れ。私達は汚れている。そのような私たちにとって心の清い人々は幸いであるという言葉は重い。心が汚れている人はこの祝福から遠い。汚れている。あらゆるところが堕落している。全てが堕落して汚れている。改革派教会では全的堕落、とこのことを理解している。それは心が汚れているところから始まるといってもよい。
心が清さを失う時、私達は神を見失う。しかしながら、私達はどこまでいっても罪人である。それなのに主イエスは言われた。心の清い人々は幸いである、と。この御言葉をとおして主イエスはなにも無理難題を私達に求めているわけではない。むしろこの祝福を与えよう。神の祝福の道に来るようにという招きの言葉である。
旧約聖書からこの清さについてなんと言っているのだろうか。この御言葉を読むうえで欠かすことのできない御言葉が詩編24編と詩編51編である。24編ではこう言われている。「24:3 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。 24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人」ここにあるように、主の山、つまり神を礼拝するものは潔白な手と清い心を持つ人だ。そのような人はどのような人かというと、「24:6 それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」このように神を求める人。その人が清い。そして幸いなのである。この清さは神から与えられる。詩編51編は言う。「51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」と。このように祈るものは幸いである。清い心を神が造ってくださり、キリストの十字架によって罪の赦しが与えられるのだから。神を見ることができないといって嘆いたり、自らの心が清さからほど遠いことに落胆する前に、神が清い心を与えてくださるということの約束に信頼して、祈ろうではないなか。求めようではないか。