2022年08月21日「平和はつくるもの」
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平和はつくるもの
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
5章9節の御言葉に思いを向けたい。「 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
平和。平和と聞くと思い浮かぶのが戦争がない状態。聖書は平和についてなんと言っているのだろうか。旧約聖書を見ると、平和を描写するものとして、ぶどうの木の下やイチジクの木の下で安心して住むことができる状態、というものがある。これは列王記4章にある描写。列王記という書物はイスラエルの王様の記録である。そして、王様というのは戦争に勝利をもたらすことが求められた。そうでないと国が滅びてしまう。そのような列王記にあって、平和とはいちじくの木のしたでのんびりすることだというのである。イチジクもブドウも、当時のイスラエルの人々が一生懸命育てていた作物。戦争がはじまったら国土があらされる。畑も燃やされてしまう。そうなるとそもそもイチジクの木が無くなってしまう。そうではなく、みんなが一生懸命イチジクの世話をして、その木の下で休み、育てたイチジクを味わう。それが、平和なのだ。やはり、平和の一つの要素として、戦争がないということがあげられる。しかしながら、ただ単に戦争がないということだけではなく、みんなで働くことができたり、労働の実を味わうことができたり。そのようなトータルな姿が、やはり平和なのである。
旧約聖書での言葉で平和はシャローム。このシャロームは非常に広い射程を持つ。ただ単に争いがないということではない。幸福、健康、子孫繁栄、そして個々人が安心しているという意味での安寧、そして戦争がないという意味での平和。これがこのシャロームなのである。そして、このシャロームは、家族、氏族、国家、というレベルで用いられる。平和は家庭から、国家へと伸びるのだ。
新約聖書においては、この平和は神の救い、救済と結びつく。狭い意味では、罪からの解放である。罪赦されること。キリストが十字架におかかりになり、この私のために死なれたこと。そのキリストの業によってこの私が救われたこと。神との平和に入ったこと。その平和は神との平和。これが与えられたものは、自分の周りに平和を広めていく。それが救われるということなのである。
平和はキリストと深く結びついている。このお方から離れて平和は考えることができないと言っても良い。なぜならば、聖書によばあらゆる不仲の原因に罪を見るから。罪!人が神から離れること。ここに、平和から遠ざかる原因があるという。あらゆる、隔てはここに原因がある。平和のためにはこの罪の問題がまず解決されなければならない。
そして、キリストが私達をこの罪から解放してくださったのは、平和をもたらすためでもあった。エフェソの信徒への手紙2章14~16節によればキリストは敵意という壁を壊してくださり、私たちにシャロームを与えてくださるお方だと言われている。このキリストから平安をいただき、壁を造るのではなく橋を架ける働きが、この御言葉を聞く私たちに求められているのではないか。