2022年08月28日「御心をもとめる」

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聖書の言葉

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~16節

メッセージ

伝道礼拝では主の祈りをご一緒に読んでいる。皆様に、お祈りを身につけていただきたいと願っている。神を知ること、信じることは祈ること。是非、神に祈って欲しい。主の祈りにはいくつかの解説本がある。その中の一つに「キリスト教の小さな学校」という副題のついた本がある。キリスト教を教えてくれる。学校のようなもの。それがこの主の祈りだと。その通りではないか。学ぶといっても堅苦しく考える必要はない。祈り方は基本的に自由。しかし、なんでもかんでも赦されるというわけではない。祈りにも祈り方、というものがある。神社などでも、参拝する時には作法がある。キリスト教は具体的な作法というよりも、祈りの内容を重んじる。

 今日は主の祈りの中の文言でも、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」に注目したい。この祈りは「戦い」というモチーフで語られる。キリスト教は愛の宗教だといわれる。戦いとは無縁だと思われているのかもしれない。もちろん、キリスト教は神の愛を人々にのべつたえる。その意味で確かに愛の宗教である。しかし、キリスト教を信じれても戦いがある。それは、誰か特定の人との戦いかもしれない。目に見えないものとの戦いかもしれない。しかし、多くの場合、戦いとは自分自身との戦いである。そしてまさに、この今日のこの祈りの言葉、御心の天になるごとく地にもなさせたまえは、自分自身との戦いに私たちを送り出す。

 なぜだろうか。そのことを知る答えは御心、という言葉にある。御心とは神の心。神の思い。神さまがなさろうとすること。その御心がこの世界にもたらされますように、と祈る。この祈りの中にでてくる天。天とはどこか具体的な場所、死んだ人が行く場所ではない。そうではなく、神が全てとなっている場所。つまり、神の御心が完全に実現している場所こそ、天だといっても良い。

 そして、この世界は本来、そうした世界だった。その世界を壊したのは人間である。本来は神の思いがこの世界を覆い、この世界は極めて良かったといわれた世界だった。しかし、その世界に罪が入り込んだ。神の世界から、神を追い出そうとした。人間が神になろうとした。それは人間でありながら人間でなくなろうとした、愚かな試みである。この愚かさの故に、人間は天から落ちていったのである。

 その結果、調和は失われ、平和よりも不和を愛するようになった。人を愛するのではなく、自分を愛するようになった。つまり、この世界は天、神の御心を失ったといってもよい。そんな世界のただ中で、私たちは御心の天になるごとく地にもなさせたまえ、と祈るである。

 それは神の思いを第一とすること。自分の思いとの戦いである。しかし、それは窮屈なものではない。自分の中に神の思いが広がっていくのは爽快なこと。なぜならば神は愛だから。御心を求めるとは良きお方の素晴らしい愛を求めるということ。この私の中に、広がっていく神の思い。この爽快感をあなたにも是非、味わっていただきたい。