2022年09月25日「必要を与えてくださる神」
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必要を与えてくださる神
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 6章5節~16節
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聖書の言葉
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~16節
メッセージ
キリストは「主の祈り」とよばれる祈りを人々に教えた。この祈りを通して私たちは神がどのようなお方か知ることができる。私たちが信じている神は、必要な糧(原文では糧はパン)を軽んじない。むしろ、そのことすらも祈りの中に入れるように、毎日祈るようにとそのように教えてくださった。
信仰者は食前に感謝をする。それは、食事が与えれたことに対する感謝である。私も毎食、祈る。毎週の礼拝で主の祈りを祈る。しかし、私たちは日ごと糧を、毎日のパンをどれだけ求めているのか、考えさせられる。時代状況にもよるが戦前・戦中・戦後の食料難を経験された方がどれくらいいるだろうか。むしろ、飽食とよばれる時代に生まれ育った人の方が多いだろう。
そのような時代に生きる私たちにとって、この「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)。という祈りはあまり切実なものに感じないのかもしれない。それでは、この祈りは意味のない祈りになってしまったのだろうか。決して、そうではない。この糧・パンはなければ空腹を覚えるもの。それはつまり欠乏。別の言い方をすれば、満たされないもの。この祈りは、一つのパンという言い方をもって、神さまが私たちを満たしてくださるように、そのように祈るようにとの教え。そして神はこの私の満たしてくださるお方なのである。
だからこそ、これまでとは違って、この祈りは「私たち」の祈り。それまでは神が称えられますようにという祈りが3つ続いた。しかしこの4つ目の祈りからは私たちが求めるもの。その最初が糧。満たされない思いがあるだろうか。それはなんだろうか。一つのパンのような小さなものであったとしても、神に求めるものでありたい。
そして、改めて食べるということに思いを向ける時、気付くのはイエス・キリストという方はやはり食べるということを大切にした人だということ。イエス・キリストを批判する人々はこの方を大食漢で大酒飲みと批判した。食べてばかりだというのである。しかし、イエス・キリストは人々と食事をしてそして酒を飲んだのである。決して、禁欲主義ではなかった。
どうして、イエス・キリストは共にテーブルを囲むことを重んじたのだろうか。それは一言で言えば、そこにまじわりがあるから。まじわりという言葉がわかりにくければつながりがあるから。つまり、イエス・キリストは人々とつながるために、共に食事をされたのである。
人々とつながる食事。イエス・キリストというお方はこの食事を頻繁におこなったのである。そして、このお方のテーブルにはこの当時、人々から疎まれていた人々が参加していた。罪人と呼ばれていた。そのような人々とイエス・キリストは食事をしたのである。彼らの腹を、そして心を満たしたのである。毎日の糧を求めるのは、体と心が満たされること。主の祈りを祈る私たちは神が必要な糧を与えてくださるお方であることを身にもって知るものなのである。