2024年05月26日「人間の考えを超えて」

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人間の考えを超えて

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章35節~45節

音声ファイル

聖書の言葉

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコによる福音書 10章35節~45節

メッセージ

私たちは日々、様々な願いを抱えて生きている。その願いは小さなものから人生の一大事まで幅広いが、どの願いも叶うかどうかで一喜一憂する。その中には、自分が他人よりも優れた存在として認められたい、自分が偉くなりたいという願いがある。また、今の苦しみから逃れたいという願いもある。私たちが本当に願うべき者は何か、キリストの言葉に思いを向けたい。

今日の聖書箇所では、ヤコブとヨハネがイエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いした。この「栄光をお受けになる」とは、王様になることを意味している。弟子たちはイエスがユダヤ人の王となり、人々を解放する政治的な権力者になると考えていたため、右大臣と左大臣として自分たちをその地位に置いて欲しいと願ったのだ。彼らが求めていたのは自分の栄光、自分が偉くなること、そして自分が苦しむのではなく、誰かに世話をしてもらうことだった。イエスについて行けば、こうしたものが手に入ると信じていた。しかし、イエスはその願いが全く筋違いであることを示された。イエスを信じる時に得られるのは栄光ではなく、「杯」と「洗礼」であると。イエスは言われた、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。この「杯」と「洗礼」は、イエスがこれから受ける苦しみと死を意味している。イエスはエルサレムに向かい、十字架にかけられて命を落とすことを予告していた。十字架は死刑の道具であり、イエスは人々を救うためにこの苦しみを受けることを選んだのだ。

このやり取りを聞いた他の十人の弟子たちは、ヤコブとヨハネに対して腹を立て始めた。弟子たちも自分の栄光を求めていたのだ。そこで、イエスは彼ら全員を呼び寄せて教えた、「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。

弟子たちは自分が一番偉くなりたいと考えていたが、イエスはその願いを否定するのではなく、一旦受け止めた上で、本当にそうなりたいのなら、互いに仕えることを勧めた。これは非常に大きなチャレンジであり、多くの人がキリストを信じることを諦めるかもしれない。しかし、イエスはこう言われた。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。

身代金という言葉には、代わりに何かを与えるという意味が含まれている。イエスはその死において、人々を神への負い目から解放するために身代わりとなったのだ。これが、イエスが自分の命を多くの人のための身代金として捧げるということの意味である。このイエスのこの自己犠牲は、私たちにとって救いの源である。私たちは皆、罪を犯し、その結果として神から遠ざかっている。しかし、イエスは私たちの罪を背負い、十字架で死ぬことで、その罪を贖い、私たちを神との関係に回復させてくださった。これがキリストの救いであり、私たちはこの恵みをいただくだけである。このような形でキリストは弟子達に、そして私たちに仕えてくださる。このお方の後についていく。それこそ私たちが本当に願うべきものである。